帰り道にある本屋を通り過ぎたあたりで、背後に人がついてくる気配を感じた。振り返らなくても誰だか分かる。学校がある日は、ほとんど毎日だ。
 歩く速度を落とそうとして、どうしてそんなことする必要があるんだと眉を顰める。結局スピードを緩めることはなく、かといって速くすることもなく、いつもと同じ歩幅を意識した。
「うぜえ」
「……たまたま、帰り道が同じなだけだ」
「ああ、そうですか」
 繰り返される会話は会話にもなっていない。きっと西園は、いつもと同じように、ずり落ちそうになっているめがねをそのままに、いつもと同じように重そうな通学鞄を両手で抱えて俯きながら、松田の後をついてきているのだろう。
 大きな道ではないが、本屋のほかにもコンビニやスーパー、公園などが並ぶ通学路には、主婦や学生の姿が散らばっている。普段よく利用している道なのだが、ふと、今日はやけに視線を感じることに気がついた。
 青白い顔をしているうえに、もやしのような体つきの西園は、このあたりでも有名な進学校の制服を着ている。そんな西園と歩くのは、松田にとってはデメリットしかなかった。
 まず、松田は髪を明るく染めている。ピアスも5つあけている。そのうえ、名前さえ書けば受かると言われる高校の制服をだらしなく着こなしている。両方のポケットに手を突っ込んで歩く松田と西園ではどう見たってヤンキーとそのパシリにしか見えないだろう。
 そんなわけで西園といるとひどく目立つのだ。好奇の視線にさらされる。
 しかし、今日の視線はいつもと違う気がした。まるで、怯えられているような。そしてどこか非難めいているような。
 なんとなく、その視線が気になり、松田は後ろを振り返った。
「げっ」
 思わず素っ頓狂な声が出たのは、今日初めて目にした西園の顔に生々しい傷跡があったからだ。目元のあたりは青く変色しているし、唇の端は切れている。背も低く痩せている西園と、そこまでガタイがいいほうではないが人並みに身長があり健康体な松田とではどうしたって分が悪い。
 視線の正体を知り、叫びたくなった。
 これは、俺のせいじゃない。とんだ濡れ衣だ。
「どうしたんだそれ」
 急に声をかけたのに驚いたのか、ぽかんとした顔で西園が顔をあげる。
「それ?」
「顔! 顔だよ、顔の怪我!」
「……ああ」
 言われて初めて思い出したように浅く頷く西園に松田はため息をついた。見ている側は痛いのに、とうの本人は全く気にした様子もない。相変わらずの無表情で、眼鏡越しの瞳にはなにが映っているのか分からない。
 どうして懐かれたのか。いや、そもそも本当に懐かれているのだろうか。西園が松田の後ろをついてくるのは、本屋から自宅近くの交差点までで十分もかからない。分かれ道になると挨拶もすることなく黙って西園は去っていく。
 だからこそ、うざい、と思いながらも放っておいたのだが、痣をつくりながら表情を崩さない西園に、今日ばかりは苛々して声を荒げた。苛々しているのはいつものことだったが、大きい声をだしたのは初めてだった。
「お前、このあと暇?」
「は?」
「うちこいよ。消毒してやる」
 嫌がるだろうと思っていた松田の申し出に、西園は目をいっぱいにして見開いた。じいっと見つめられ、そんな反応にさすがの松田も戸惑う。目を合わせたままこくりと頷く西園に、言わなきゃよかったとも思ったがこのまま放ってもおけない。
 西園とはもともと小学校のときの同級生だったらしい。らしい、というのは松田が西園と同じクラスになったことはないからだ。そのため、松田は小学校ときの西園の記憶がさっぱりない。
 西園は、小学校を卒業してすぐに親の都合で他県に引越したのだそうだが、高校進学を機にこちらへ戻ってきたという。
 確かに、ここらあたりでは有名な学校であるが、県外からも応募者がくるほどのものだとは思えない。その点、松田にしてみれば不思議で仕方がないのだが、つっこんで聞いたことはない。本人が行きたかったのだったらそれ以上でも以下でもない。
 高校のレベルが天と地ほど違うのに接点ができてしまったのは、松田が本屋で西園の万引き現場を目撃してしまったからだ。正確には未遂である。
 帰り道にふと本屋に寄った。小説は読まないが、漫画ならたしなむ程度に読む。その日も好きな漫画の発売日だったのだと思う。店に入ったら、隅でがちがちになっている少年を見つけた。後姿からでも、今から万引きをしますよ、という光線が体から出ていた。ちらとレジを見ると、店長のオヤジは新聞を読みながらもそちらを気にしているようだった。
 なんとなく目が離せなくなって、背中をじっと見ていたら、視線に気付いたのだろう、少年がはっとしてこちらを振り返った。そして、薄い唇が小さく「まつだ」と動いたのだった。
 その瞬間、体が勝手に動いていた。少年に近寄り、手首をつかむと強引に店の外へと引っ張って行った。
 松田、と自分を呼んだその少年は、少年ではなくて同い年の西園だった。パーカーにジーンズと普段着だった西園は、せいぜい中学生くらいにしか見えなかった。
 なんで俺を知ってるんだ、と聞いたら、一緒の小学校だったから、と西園は答えた。首を傾げると、同じクラスになったことはないよ、と言った。そして聞いてもいないのに、松田君は目立ったから、と呟いた。
 小学校卒業と同時に引越したことと、高校はこちらを選んだことはこのときに聞いた。
 思えば、これが一番長い西園との会話だ。
 それからは「うざい」とか「帰り道云々」しか話していない。
「で、喧嘩でもしたのか」
 松田の家は広さだけは充分にある古い平屋だ。両親ともに働いており、中学生の弟は兄と違い真面目に部活にいそしんでいるので帰りは遅い。
 誰もいない家に西園を連れ込んだ。茶も出さず、居間で待たせる。消毒液には自分も昔何度もお世話になっているので、簡単な手当てならできる。西園の痣は明らかに殴られた痕だった。
 喧嘩、と自分で言っておきながら違和感を覚える。こんな細くて弱そうで他人に興味なんかなさそうなやつが喧嘩なんかするわけがない。案の定、西園は小さく首を横に振った。
 あ、と急に思いついた。どうしてこんなに単純ではっきりとしているようなことを分からなかったんだろう。
「お前、いじめられてんのか」
 言っている内容にしてはそぐわない声のトーンで聞いてしまった。すっとぼけた声だった。見るからに不真面目な自分に飽きもせずについてくるのだから、相当図太いのだろうと思っていた。そのため、「いじめ」という言葉が抜け落ちてしまっていたのかもしれない。
 唇の端に消毒液をしみこませたガーゼを当てても、分かるか分からないか程度に眉を顰めることしかしなかった西園が、驚いたようにきょとんと目を瞬かせ固まった。
 松田とて一応常識は持っているので、すぐに自分の無神経な発言に気付き、わりい、と呟いた。
 西園はしばらくじっと松田を見つめていたが、ふっと口角をあげた。笑った顔を見たのが初めてだったので、動揺してしまった。笑うのに慣れていないのか、なんだかひどくぎこちない。
「なに笑ってんだ」
「いや」
 首を振る西園は、小さく笑みを浮かべたままだ。ずっと無言だったのだが、消毒が終わるころになって、「同じこと、言うから」と抑揚のない声で言った。
「は?」
「小学生のときに、言われたんだ。『いじめられてんのか』って」
「誰に」
「松田君にだよ」
 はあ? と言って、首を傾げる。小学校は同じだというし、すれ違ったことくらいはあるだろうと思っていたが、会話もしていたのか。そして、そのころから無神経なことを言っていたのか。
「僕は、いじめられてたから、うん、って答えたんだ。そしたら、誰がやったんだ、って松田君が聞いてきて、片山君、って言ったら、殴ってくれた」
 片山のことなら覚えている。小学生のころからお山の大将を気取っていていけすかないやつだった。中学も同じだったが、三年間そりが合うことはなかった。殴ったことも記憶にあるのだが、それにしたって、目の前にいる西園のことはなにひとつ分からない。
「覚えてなくても、しょうがないよ」
 悪い気がして黙っていたら、心を読んだようにそう言われた。
「覚えてくれてなくてもよかったんだ」
 分厚いレンズの向こうにある目が、思っていたよりもずいぶん近いところにあるのに今さら驚いた。睫毛の長さまではっきりと分かる。
「僕が、覚えてるからよかったんだ」
 消毒してくれてありがとう、と静かに言った西園は、松田の横をすり抜けるようにして玄関へ向かう。無意識のうちに手が伸びて、肩を掴んで振り向かせた。西園の見開いた目が松田をとらえていてなぜかほっとした。
 頭のいい奴はストレスがたまっているだろうから、万引きなんかしそうになったんだろうと勝手に思っていた。理由も聞かなかったし、これまで万引きをしたことがあるのかも聞かなかった。そんなことするなとも言わなかった。
「お前、いじめられてんのか」
 さっき言った言葉を、今度は真面目に聞いた。
 一瞬、西園の顔が泣きそうに歪んだ。
「誰だ。言え。俺が殴り返してやる」
 視線を反らし、体を離そうとする西園が逃げないように手に力を込める。西園は唇を固く結んでいたが、口を開かないことには離してくれないことに気付いたのか、ようやく言葉を落とした。
 ただ、それは松田が尋ねた、西園をいじめている奴の名前ではなかったが。
「……どこに行っても、変わらないから、もういいんだ。でも、どうせいじめられるんだったら、こっちのほうがいいと思ったから、戻ってきたんだ」
 黒目がちの瞳が、急に近付いてきた気がした。
「かばってくれたの、松田君だけだったんだ」
 そう言った瞬間、目前に西園の顔がせまった。なにも考える暇もないままに、唇に柔らかなものが軽く触れた。
「また会えて、夢かと思った」
 茫然としている松田にうっすらと笑いかけ、西園は玄関へ消えた。玄関のドアの開閉音を、突っ立ったままで聞いていた。




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別名義でpixivに書いてたやつです。今はアカウント消しちゃったんですけど、もったいなかったのでこっちにもってきました。