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 あまり話したことはないけれど、なんとなく頭の片隅にひっかかっているやつがいる。
 特別仲が良かったわけじゃない。自分たちが馬鹿みたいに教室で騒いでいても、ひとりで静かに本を読んでいるようなやつだった。
 放課後、ホームルームが終われば誰と会話することなく帰っていく。ひとりでいても気にしていないような、まっすぐな背中と冷たい横顔が印象的だった。成績がやたらといいのだが、それを鼻にかけることはしない。そもそも自分が勉強できることにすら興味を持っていないようだった。
 今まで自分の周りにはいなかったような生き物で、席替えで隣になったのをいいことに生態をぼんやり観察していたら、視線に気付いたのかゆっくりと顔をあげた。そのときの表情は、思っていたよりも幼かった。
 ――なに?
 首を傾げる男になぜだか「ケータイ持ってる?」と口走った。本当に無意識だった。口が勝手に動いたのだ。一瞬、変なことを言ったと頭が真っ白になったが、戸惑いながらもそいつは頷いて、勢いのまま電話番号とメールアドレスを聞いた。交換したのを最後にメールをやりとりすることなどなかったが、満足したのは覚えている。
 きっとあの教室で、そいつのメールアドレスなんて知っているのは自分くらいだった。
 もしかしたら、友達になりたかったのかもしれないと思う。頭がよくて、スポーツなんてできないような細い体で、無口でなにを考えているのか分からないその男と。
 だが、友達になることは叶わなかった。転校が決まったのだ。両親の離婚で、母方の実家である香川に越すことになった。あまり暗い話題にはしたくなかったので、わざと派手に新たな住所を披露した。本当にくれる気があるのか、「年賀状送るね」という女子にも片っ端から教えた。そしてその中に、そいつも混ぜた。
 ノートの端に住所をメモして、笑いながら男に押し付けた。不自然さはなかったと思うが、そんなことをいちいち不安に感じること自体、自然ではなかったということだろう。
 同じサッカー部の友人が駅まで見送りにきてくれるということだったが断った。笑いながら手を振って教室を出るときに、視界の端にそいつの姿が映った。手には本を持っていたけれど、目はこちらを向いていた。
 最後に目が合った。笑いかけると、そっと瞳を細めた。

 引っ越して二ヵ月。公立高校の男子の制服なんて、土地が変わってもどこも似たようなもので、若干ズボンの色が濃くなっただけだ。変わりばえのしない制服で高校に通い、サッカーを始めているうちに、徐々に記憶は薄らいでいく。
 性格のせいか、寂しいと思うこともあまりなかった。新しい土地は新鮮で、家の近くに海があるのは嬉しかった。釣りを覚えて、サッカーのない日は朝から出かけた。
 そんな日々の中で、ときおり前の学校を忘れて行くことを咎めるように頭の中に現れるのが、最後に細められた瞳だ。
 どうしているんだろうなあ、とは思いながら、連絡をとる気にはならなかった。本当にそこまで親しい間柄じゃなかったのだ。それなのに、自分がそいつに電話をかけているのは、突然謎すぎるものが送られてきたからに他ならない。
 母の実家にやっかいになっているので、家にはいつでも祖父母と犬がいる。とくに喋り好きの祖母とその血を受け継ぐ母のおかげで、家の中はにぎやかだ。離婚したばかりだというのに、母には暗い影はひとつもなかった。我慢しての離婚だったので、ひょっとすると別れたからこそ明るくなったのかもしれない。
 学校を終え、近所に最近嫁いできたという女の人の話をきゃあきゃあと騒いでいる祖母と母の横を通り過ぎようとしたときに、呼びとめられた。にやにやしながら差し出されたのは白い封筒だった。
 シンプルなそれを手に取り、送り主を確認して、しばらく固まった。
 前田葵。あいつの名前だった。
「なにようラブレター?」
「ばか、男だよ」
「またまたあ」
 母親は信じていないようで、からかうように肩を叩かれた。名前が男か女かまぎらわしいうえに、字が変に綺麗なのもまずい。おそらく自分が母の立場だったら間違いなく女だと思うだろう。そもそも男は手紙なんか書かない。
 母の声を背に急いで自分の部屋へと向かった。それ以上間違いを訂正する気になれなかったのは、そんな余裕がなかったからだ。
 前田から手紙がきた。その事実にひどく心が浮ついていた。いきなりなんなのか。手紙なんか送ってくれるとは思わなかった。住所を教えたからか。教えといてよかった。
 急いている自分を誤魔化すように、鋏を使ってわざとゆっくり封をあけた。指で中をさぐる。
「あれ?」
 中は、空だった。

 いったいぜんたい、あの手紙、ではなくてあの封筒はなんなのか。
 意味を知りたくて、以前交換した番号にここぞとばかりにかけているのだが、なかなか出てくれない。あれだけ頭の良かった前田のことだから、夜にあまり時間がないのも分かる。ホームルームが終わればすぐに帰ってしまうし、クラスの中でもどこか有名な進学塾にでも通っているんだろうと噂になっていたが、どの曜日だったら空いているのかなど知るはずもない。
 とりあえずいつでもいいから空きはないのかと一週間毎晩かけているが、どの日も空振りに終わっている。電話じゃ駄目なのかとメールした。それすらも返信が来ない。
 受話器から聞こえる呼び出し音に、めげそうになっていた。
 この一週間、考えていたことといえば前田のことばかりだ。どういう意味なのか。なにが言いたいのか。馬鹿な自分にはさっぱり分からない。冗談だとしても、どのあたりがジョークの部分なのかちゃんと知りたい。駄目か、と諦めかけていたそのとき『はい』とかすれた声が聞こえた。
「あ、でた」
 駄目だと思っていた矢先に飛び込んできた、記憶の中で埋もれがちになっていた声に思わず笑みが浮かんだ。
「よかったあ、もうすぐ切るとこだった」
 相変わらず前田は無口で、なにも言わない。やっぱり忙しいのかもしれない、と思い、さっそく本題を切り出した。
「どうしたんだよ、あれ、どういう意味?」
 あれ、と言えば相手には伝わるだろうと思った。一週間考えたがなにも答えが出なかった。降参だ。負けを認めて、笑いながらそう言ったら、相手の空気がすうっと冷えていったのが電話からも伝わった。
『……どういう意味って? なんで、吉井は笑ってるんだ』
「え?」
 冗談じゃない、と前田は言った。
『ちゃんと読んだのか』
 意味が分からなかった。何度も確認したが封筒の中にはなにも入っていなかったはずだ。読める文字は宛名ぐらいしかなかった。冗談じゃない。だったら本気で空の封筒を送ってきたのか。それともあの封筒にこそ特別なメッセージが隠されていたのか。それとも封筒を送り合うことが今学校で流行っているのか。
 慌てて疑問をぶつけるが、前田は苛立つだけだ。怒らせたくはないのに、いったいなにが怒りの原因なのか見当もつかない。
『隠したつもりはない。ちゃんと書いた。全部書いた。冗談だと思って電話なんかかけてきたのか』
 もしや、と思った。自分は盛大な勘違いをしていたのじゃないか。
「……もしかして、ちゃんと手紙を送ってくれたわけ?」
『なにを言ってるんだ』
 泣く手前、みたいな声を出すので、本格的に焦った。
「手紙きてないよ!」
 そう言うと、相手が固まったのかシン、と静かになった。
『……………………は?』
 間抜けな声に、必死に言い募る。
「中、なにも入ってない。空だよ!」
 前田が動く気配がする。がら、と引き出しをあけるような音がした。
『あ』
「なに? あ、ってなに?!」
『中身、いれるの忘れた』
 はあ? と大きな声が出た。まさか、あの前田がそんな間抜けな失敗をするとは露ほども思わなかった。冷静に考えたらそっちのほうが自然なのだろうが、前田のことだ、なにか意味があるんだろうと勝手に思い込んでいた。
『封筒だけ送られてきて変だと思わなかったのか」
「思ったよ! すげえ気になったからこうして電話かけてたんじゃないか。なにか意味があるのかと思って」
『そんなもん、どこに意味を見出すんだ』
 心底呆れたという言い方だった。絶対にこっちのせいじゃないのに。無駄に期待させやがって、と反抗する気持ちを込めて言い返す。
「前田のことだし、わざとそういう形式をとったのかと思ったんだよ。なんだよ、たんなる入れ忘れかよ。意外に馬鹿なんだな」
 馬鹿という言葉に前田がむっとしたのが伝わってきた。なぜかそれがひどく可愛く思えて、笑ってしまった。
「で?」
『は?』
「手紙の中身だよ。なに言いたかったんだよ、ついでに教えろよ」
 ちゃんと手紙をくれる気でいたというのなら、それはそれでなんて書いてあったのかが気になる。直接言ってくれたほうがすぐすむだろうという提案だったのに、前田はお気に召さなかったようだ。
『口では言いたくないから手紙に書いたんだろ。言えるわけないじゃないか』
「なんだよ、そんな大事なことだったら忘れるなよ。じゃあ、もう一回送れよ」
 当然のことに思えたのに、それも数秒の沈黙ののち『嫌だ』という前田の言葉で却下された。
『もういい。手紙のことは忘れてくれていい。すごくどうでもいいことだったんだ』
「口では言えないことって今さっき言ったじゃねえか」
 言っていることがめちゃくちゃで呆れる。こんな男なのだったのだろうか。冷たい横顔が記憶の中から現れる。でも、今自分が喋っている相手とどうも結びつかない。やっぱり仲良くなってから転校するんだった。友達になってから離れたらよかった。今、どう言う顔をしているのか、無性に知りたかった。
「悪かったな」と呟いた前田が電話を切ろうとするので、慌てて「待った」と止める。不思議そうにする前田に気付かないふりをして、近況報告を無理やり要求した。毎日忙しいのだろうと思っていたが、そんな気配は感じられない。金曜日は塾がないのかもしれない。そうなのだったら、こんなチャンスを絶対に逃したくはなかった。
 ちゃんと話してみると、前田の冷たい印象がぼろぼろと崩れていった。ぼんやりとした話し方はとらえどころがなくて楽しかった。
 このまま、終わってしまうのは嫌だと思った。
「なあ、前田は金曜の夜だったら空いてるのか」
 日付ももうすぐ変わろうとしている。そろそろ限界か、と見切りをつけたところで思いきって切り出した。
「ずっと電話に出てくれなかったから、塾で忙しいのかと思って」
 そう言うと、前田は戸惑ったように『塾には言ってない』と答えた。すっかり塾通いで忙しいと決めつけていたので、違うと知って驚いた。
「行ってないのに頭いいの?」
『家で勉強するからだ』
「だって学校終わったらいっつもすぐ帰ってたじゃん」
『残ってたって意味ないだろ。それにうちは夕飯が早いんだ』
 夕飯のために早く帰ってたのか。どれだけ食いしん坊なんだ、とまた前田のことがよく分からなくなる。
「……じゃあ、夜は暇なのか」
『暇じゃない。勉強したり本を読んだりしている』
 駄目だ。と思った。根本的に考え方や人間の作りが違う。はたと気付いた。塾に通っていないのなら、これまで電話に出てくれなかったのはなんだったんだ。
 それを尋ねると言いにくそうに口ごもった。あまり追いつめるのもかわいそうだったし、声をきけたことと、夜は時間があいていることを知れたおかげでだいぶ気分がよくなっていたので、まあいいけどと流した。
「じゃあ、これからも電話していい?」
 さらりとそんなことをお願いした。前田相手だと、自分の口は考えるよりも先に動いてしまうらしかった。えっ、とためらいながらも了承する前田にしめたとばかりに電話をすることを告げる。
 一方的に自分が喋るだけだったけれど、まあいい。時間はたっぷりある。遅くはない。これから、友達になっていけばいい。また手紙を書いてくれたらいい。しかし、手紙を入れるのを忘れるなんて、本当に間抜けだ。間抜けなことをしたのが前田かと思うと笑いがこみ上げるのを止められない。
 結局、前田は送ってくれるはずだった手紙の中を教えてくれる気はないのだろうか。そんなことを考え、先ほどまで握りしめていた携帯を手に取り、メールを打った。うるさい、の四文字に、今度こそ声を出して笑った。