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たぶん、その日は、すごく天気がよかったんだ。
窓から入る光りのせいで、教室は真っ白だったからね。机も椅子も、男子も女子も、みんな真っ白で、一瞬、そこがどこなのか分からなくなるくらいだった。何も書かれていないまっさらな黒板と、教卓の横に立っているクマみたいな先生のおかげで、ああ、いま僕は教室にいるんだって気付いた。
授業が始まる。慌てて準備をしようとして、僕は恐ろしいことに気付いてしまった。教科書を忘れてたんだ。もう最悪だよ! だってクマだよ。先生クマなんだよ? その先生は少しでも気に入らないことがあると、平気で生徒を殴るんだ。クマに殴られたら、しらたきみたいな体をした僕なんて、ひとたまりもないよ。
案の定、僕はその場に立たされた。こういうときに限って、先生が絶好調に不機嫌なんだもん。ついてないよね。
『おい菊池。忘れ物なんていい度胸してるじゃないか。大人を馬鹿にしてるのか』
声を震わせながら、少しずつ、先生が僕のほうへと近付いてくる。
目は鋭くとがっていて、鼻息は荒い。ほんっと怖いよ。クマに食べられそうになったら人間ってあんな気持ちになるのかな。よく分かんないけど。っていうか、そんなに怒るくらい僕はひどいことしたかな? 忘れ物するのはよくないけど、でもたまにはしょうがないじゃん。人間なんだから、忘れ物のひとつはするさ。
いやあ、怖かった。殴られるのかなって思った。痛いかな。痛いよな。死にたくないなって。
そのときだよ!
『先生』
隣から、凛とした声がしたんだ。
僕が知っているような、同年代の男の子たちのものと全然違う。余裕があって、大人びてて、でも涼しげで、耳に残る声。
『菊池くんは教科書を忘れてません』
はっきりと、その人はそう言った。僕は驚いて隣を見た。こんな恐ろしいクマから、誰かが庇ってくれるなんて思わなかったから。そしたらさあ、誰がいたと思う?
あっきーだよ! あっきーが僕の隣の席にいたんだ。
外国の人形みたいにきれいに整った顔を、少しも崩さないであっきーは言った。
『教科書は、ぼくが忘れたんです』
驚いたよ。でも、下を見たら確かに僕の机の上にはちゃんと教科書がある。もちろん僕は本当に教科書を忘れていたはずだった。じゃあなんて僕の机に教科書が?
そうだよ、あっきーだ!
あっきーが自分を犠牲にして僕を庇ってくれたんだ。今思い出しても本当に信じられない。
授業が終わってすぐに、僕はお礼を言うためにあっきーのところに行った。あっきーは本当に美しい顔をしているから、近くに行くのはすごく緊張したけど、でも一言でもいいから礼が言いたかった。
下心なんてないよ。純粋にお礼が言いたかっただけ。
震える口をなんとか動かして、やっとの思いで「さっきはありがとう」って伝えた。
そしたらね。ねえ、あっきーは、なんて言ったと思う?
『なにが?』
って!
かっこよくない? 『なにが?』だよ! あんなに恐ろしいクマから助けてくれたのに、表情一つ変えずにさ! 自分はなにもしてないけど、みたいな言い方でさ!
漫画みたいに、僕の耳には鐘がなる音が聞こえて――……
「そこで目が覚めたんだ!」
熱弁をふるっていた菊池(きくち)実(み)咲(さき)が、ようやく満足したように胸を張った。満面の笑みだ。
相槌も打たず、ただその話を聞くに徹していた草野(くさの)宗太(そうた)の眉間にぐぐっと皺が寄る。分厚いレンズの奥にある目には疑問符が浮かんでいた。はっきりいってちょっと、いや、全く意味が分からない。
「………………で?」
宗太の問いに、実咲は大きさの合わない黒縁めがねと長い前髪で隠れた幼い顔に、にっこりと笑みを浮かべ首を傾げた。「で?」と聞かれた意味が本当に分かっていないのか、単に笑顔でごまかしているだけなのか。
実咲の言う「あっきー」とは、「日野(ひの)明輝(あきてる)」という、歌って踊れて演技もできる、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの男性アイドルの名前だ。最近はよく歌番組やドラマで見かけるし、コマーシャルにだって引っ張りだこ、彼をテレビで見ない日はない。芸能人には疎い宗太だが、実咲の影響で彼だけは顔と名前が一致するようになった。
一致するようになったものの、だからと言って、実咲の話を全て理解できるようになったわけではない。とりあえず、ずっと喋りどおして疲れただろう(聞いてる方も疲れた)と、勝手に休憩を入れることにする。
「……なにか飲み物持ってくる」
「わーっ。待って待って待って。まだ続きがあるんだよう」
立ち上がろうとする宗太の腕に、慌てた実咲がとびつく。ぴたりと回された腕が熱い。実咲は体温が高くて甘い匂いがする。手足も細いし、十五歳という年齢のわりには随分と子どもっぽい。
「机の上に置いてあった教科書だけどさ、一応、本当にあっきーのものなのか名前のところを確認したわけ。僕の早とちりで、本当は別の人の教科書でしたなんてことになったら恥ずかしいじゃない。ねねね、なんて書いてあったと思う?」
「……さあ」
素っ気ない返事をしてもたいして気にした様子もなく、それどころかもったいぶるように答えを焦らす実咲の神経が、宗太には理解できない。
「あっきー」
「は?」
「『あっきー』って書いてあったんだ! 名前を書くところに。信じられる?」
信じるもなにも、それは実咲の見た夢の話なんだから、実咲の話すこと全てが真実なはずだ。というか、実咲にしか本当のことは分からない。実咲が白と言えば、宗太も白だと返すしかないだろう。「あっきー」と書いてあったと実咲が言うなら書いてあったんだろうし、書いてあろうがなかろうが、正直知ったこっちゃない。
心の中ではそう思うのだが、興奮しながら話す実咲の、あまりにも嬉しそうなその表情に、心の声は一言だって口から出てこない。別に、もともと茶々を入れるつもりはないのだ。宗太にとっては露ほどの理解もできない話でも、頬は上気させきらきらと顔を輝かせる実咲を見ていたら、好きなだけ喋ってくれとも思ってしまう。
眼鏡をとった実咲の顔が、本当はとても整っていることを知っている宗太は、あっきーのことを話しているときの実咲が(面倒くさいときもあるけど)一番かわいくて好きだった。
だが、いくら好きだからと言って、分からないものは分からない。
「……で?」
「ん?」
「あっきーって書いてあって、なに?」
宗太の質問に実咲は心底驚いたというように目を丸くした。まさか分からないの? という心の声が表情にはっきりと表れている。それはむかつく。その顔はむかつく。可愛いと思ったことを撤回してやろうか。
「『あっきー』って書いてたんだよ! 名前のところに、日野明輝じゃなくて、『あっきー』って! 普通はフルネームで書くでしょ」
「……まあ、そうかな……?」
「そうだよ! そして、そんなところまであっきーは『あっきー』を貫いてるんだ」
かっこいい! と実咲が叫んだ。