1.
これまで、宗太には友達らしい友達はいなかった。
話しかけられれば答えはした。必要なときには普通に喋った。別に人が苦手だとか人見知りだとかいう可愛げのある理由はない。ただ自分の家庭環境のことについて他人にいろいろ言われるのが煩わしかった、というそれだけのことだ。
昔、当時はよく話していたクラスメイトがアパートに遊びに来たとき、偶然母が家にいた。露出の高い服に、きっちりと化粧をして仕事に出かけていった母の姿を、友人は「お母さんじゃないみたい」と評した。
いつも両親の帰りが遅いから寝るまではだいたい一人だと言うことを伝えると、不思議そうに「夕飯は?」と聞かれた。ポテトチップスがあると答えたら、あからさまに同情された。
そのときから、宗太は友達を家に呼ばなくなった。たぶん、自分の家が「普通」とちょっと違うと思いはじめたのはそのときからだ。夜一人なのも、夕飯がお菓子なのも、宗太にとっては当たり前のことで、「可哀想」みたいな反応をされるとは思わなかった。
遊ぼうと誘われても、毎回断り続けたら、声をかけられることもなくなる。宗太には膨大な時間が残されてしまったが、昔から一人遊びは得意だったし、なにより誰にも干渉されないのは楽だった。
一人で行動することにもすっかり慣れた、そんなときに、流星のごとく現れて、宗太の「友達」になってしまったのが菊池実咲だ。
実咲との出会いは、ある意味人生の転機とも言えた。それくらいに、衝撃的な出来事だった。
制服が夏服に変わった中学二年生の中途半端な時期に、東京という遠い都会の地から突然やってきた転校生が実咲だ。
宗太が最初に持った実咲の印象は「今にも消えそうな小人」だった。まだ体ができあがっていない子どもたちの中で、特に実咲は小さかった。半袖のシャツからは白くて折れそうに細い腕が伸びていて、制服を着ていなければ小学生と間違われてもおかしくなかった。
教室の前に立ち、担任の教師に挨拶を促されても、あんまりぼそぼそと喋るものだから、宗太は実咲の言っていることを半分も聞き取れなかった。挨拶自体がすごく短かったから、ほとんど聞こえなかったと言ってもいい。もしかしたら隣にいた担任の先生にも聞こえなかったのではないかと思っている。
出席番号の関係で実咲は宗太の前の席になった。隣の女子も前の席の男子も、もちろん宗太も、席に着いたとたんに俯いて動かなくなってしまった実咲に声をかけることはできなかった。
実咲は暗かった。教室の隅で読書ばかりしていた宗太もなかなか暗かったが、輪をかけて実咲は暗かった。
長い前髪と大きな黒縁のめがねで表情を隠し、いつも下を向いて本を読むでも絵を描くでもなく、ただ席に座っている。
転校生の宿命でそんな実咲でも初めはみんなの話題に上ったが、喋らず笑いもしない実咲に飽きたのか、すぐにそこまでせまった夏休みへと関心が移った。
自分の席からあまり動くことのない宗太には、同じくいつも座ったままでいる実咲の背中がよく視界に入っていた。宗太は実咲を勝手に地味仲間だと認定していたが、それにしても不思議だった。前髪やめがねに隠れていても、プリントを回すときなどにちらりと見える実咲の顔は、はっとするほど端正なつくりをしていたからだ。
そんな中、授業の合間の休み時間に宗太は生徒手帳を拾った。理科の授業のためにクラスメイトたちはすでに移動しており、教室にはトイレに行って行動が遅れた宗太しかいなかった。
拾い上げると、その拍子にはらりとなにかが落ちる。それは一枚の写真だった。おそらく生徒手帳に挟んでいたのだろう。写真には、宗太よりもいくつか年上に見える少年が写っていた。
頬杖をつき、目を細め笑っている姿はとても垢ぬけている。日本人離れした、彫りの深い、恐ろしくきれいな顔立ちをしているけれど、笑顔はどこか幼さも感じられて親しみやすそうだ。芸能人かと見当をつけるが名前は分からない。そういえば見たことがある。けれどそれはどこだったか。
生徒手帳の持ち主を確認してみると謎の転校生、実咲のものだった。あとで渡そうと写真を手帳に挟んでポケットに入れたが、鐘の鳴るギリギリに理科室に駆け込んだ宗太は、その後すっかり生徒手帳のことを忘れてしまっていた。
宗太が生徒手帳のことを思い出したのは放課後のことだ。あと少しで読み終わる小説の続きが気になって教室に残っていたら、ずいぶんと落ち着きのない動きをする実咲に気がついた。
ぐるぐると教室を回っていたかと思えば出て行ってしまい、いつの間にか戻ってくる。宗太以外には誰もいない教室で鞄や机の中を覗き込んでいるのを見て、ようやく生徒手帳のことを思いついた。
「菊池くん」
声をかけると、よほど驚いたのか体が小動物のようにびくりと跳ねた。その反応に宗太のほうが戸惑う。
「いや、なにか探しているみたいだったから……、そういえば、菊池くんの生徒手帳を拾ってたんだ」
ポケットから取り出して実咲の前に「はい」と言って差し出す。実咲の名前が見えるように表にして出しているのに、とうの実咲はなかなかそれを受け取らない。前髪とめがねに隠れた顔からはなにを考えているのかは読みとれず、けれどどうやらじっと生徒手帳を凝視しているのだろうことは窺えた。
「菊池くん?」
もう一度名前を呼ぶと、ばっと実咲が顔を上げ、奪うようにして手帳を掴みとってしまう。さすがに失礼じゃないかとむっとして眉を顰めたが、すぐに緩んだ。実咲の顔が真っ赤になっていたからだ。レンズの向こうにある大きな瞳が怯えている。
「どうした?」
「……見た?」
初めてはっきりと実咲の声を聞いた気がした。教師に指名され教科書を読まされているときでも小さく聞き取りにくい実咲の声は、誰もいない教室にやけに響いた。
「中は見てない。……あ、写真なら落ちたときに見たけど。ちゃんと挟んでおいたから」
宗太にしてみれば事実だけを述べたにすぎなかったが、実咲にはそれが地雷だったらしい。
赤く染まっていた実咲の顔から今度は血の気が引いていく。正直、写真の中に映っていた少年の顔はもうぼんやりとしか思い出せなかった。そのへんにいる男とは明らかに種類からして違うのだと思うほど綺麗だったが、宗太の記憶といえばその感想だけだ。
小さい体をますます縮まらせた実咲は、宗太がうろたえている間に、鞄を掴んで脱兎のごとく教室を飛び出した。予想外の行動に、宗太は茫然とその後姿を見送るしかできなかった。
アパートに帰ると宗太はすぐにテレビをつけた。母親が家に帰ってくるのはだいたい日付が変わってからで、父親にいたってはこのひと月ほど姿を見ていない。ひとりの時間が有り余っている宗太が帰ってなにをしようと宗太の自由だ。きっと深夜に街を徘徊したところで、補導さえされなければ親から咎められることもないだろう。
適当にチャンネルを変え、目に映る芸能人に目を凝らした。ドラマやバラエティに加え、コマーシャルもチェックする。どこかで見たことがある。宗太でさえ見た覚えがあるのだから、きっとすごく有名な人だ。あれだけきれいな顔をしていて、しかも自分の魅せ方を熟知しているような写真うつりのよさをみると、とても素人とは思えない。
しばらくチャンネルをザッピングしていたら、ようやく目当ての人に遭遇した。それは清涼飲料水のコマーシャルだった。おぼろげだった顔も本人を見ればすぐに思い出せる。
明るい日差しの下、シャツとジーンズ姿がやたらと爽やかだ。明るく染めた髪にも軽薄さは感じられず、むしろ整った顔立ちが柔らかい印象になりとても似合っている。彼は走りだして、プールへと飛び込んだ。水しぶきが飛び散る。爽やかの塊だ。眩しい。
「これだ」
すっきりとして心も体も軽くなった。
だが、写真の正体は判明したものの、実咲の反応だけはどうしても理解できない。宗太に否はないと思うのだけれど、実咲のあの怯えきった姿を見てしまったら、全面的に自分が悪いような気もしてしまう。
くっと背伸びをしたあと、明日ちゃんと謝ろうと心に決めた。なにを謝ればいいのかはさっぱり分からなかったのだが、あまりにも後味が悪すぎた。
なぜかは分からないがとりあえず謝る、と決めた次の日はなんとなくそわそわしてしまい、いつもよりも早めに学校に着いた。けれど、実咲が現れたのはホームルームが始まる直前で、宗太の姿を目にすると怯えるように身を縮める。
いくら体を小さくしたところで隠れることなんかできないのに、いったいなにを怯えているのか。でもそうさせているのは間違いなく自分だ。悪いことをした自覚はないけれど、きっとなにか気に障ったんだろう。そう思い小さく深呼吸する。実咲が席に着くのを見計らい、腰を浮かせ肩を叩いた。
「菊池くん、昨日は、」
がた、と大きい音がしてこちらを向いた実咲が体をのけ反らせた。宗太が話しかけるとは思っていなかったのか、眼鏡越しに見える大きな目がいっぱいに開けられている。そんな反応に宗太のほうが驚く。教室の喧騒が一瞬消えて、視線が宗太と実咲に集まった。
予想外に注目を浴びてしまい宗太が固まっていると、実咲が先に口を開いた。
「ごめんっ」
それだけを早口で言いきると、実咲は前を向いて俯いてしまった。赤くなった首筋が見える。クラスからまたざわつきだし、ようやく宗太も浮かしていた腰を椅子に下ろした。
即座に「今は駄目だ」と判断する。なにしろ実咲は宗太の想像を超えた反応を返してくるから、下手をするとまた目立ってしまう。焦るな、と言い聞かせる。相手は宗太と同じ、地味でおとなしい人種じゃないか。人に注目されるようなことはきっと避けたいだろう。そう考え、人目のない時間に再チャレンジすることにした。
そう。宗太はこのときはまだ実咲のことを『地味で根暗で無口だけれど人畜無害な人種』だと思っていたのである。
放課後、逃げるように帰ろうとする実咲の手首を思い切って捕まえた。びくびくしている実咲に、宗太は周囲を気にしながら「話があるんだけど」と持ちかける。身長の低い実咲が、弱々しく宗太を見上げた。
泣くかな、と思った。泣いてしまわれたら、宗太はもう手を離すしかなくなる。小動物みたいに震える実咲に泣かれたら、まるでこっちがいじめてるような気分になって、心が折れてしまいそうだ。けれど、実咲は泣いたりせずに、小さく頷いて席に戻った。
前後の席で、なんの会話もないまま教室に人がいなくなるのを待つ。ちらりとこちらを気にして一瞥する生徒もいるにはいたが、すぐに出ていった。教室に自分たちしかいなくなったのを確認し、よし、と気合をいれたところで、先に実咲のほうがくるりとこちらを振り返る。
眼鏡の向こうの大きな目から、今にも涙が零れそうだった。
「だ、黙ってて!」
「えっ」
必死の形相に、ぽかんと口を開ける。友達を作らないでいたら、人の気持ちに鈍感になってしまったのだろうか。だがどうしても意味が分からない。
「……なにを?」
首を傾げる宗太に実咲はきゅと口を噛んで、言いにくそうに下を向いた。実咲が言いにくいのなら、宗太が考えるしかない。これまであまり接点のなかった実咲との間で、思いつくのは昨日の一件だけだ。
「写真のこと?」
実咲の方が可哀そうなくらいに震える。正解だ。
「別に言わない……。ああ。昨日テレビで見て思い出したけど、あの人、やっぱり芸能人だったんだな」
空気を和らげようと声をかける。宗太の言葉が意外だったのか、実咲はぱちぱちと瞬きを繰り返した。実咲の肩の力が抜けていく。眼鏡や前髪だけでは隠しきれない、分かりやすい変化に思わず笑みが漏れた。なんというか、素直だ。
「名前、なんだっけ、あの人」
「………………知らないの?」
ぽつりとこぼれた声は小さかったけれど、先ほどのような悲壮感はなかった。それに安心して、けれど感情の琴線を刺激しないように、できるだけゆっくりと話しかける。
「芸能界のこと、あまり詳しくないんだ」
「今、すごく人気なんだよ。本当に、大人気なんだ」
「だろうな。CMで見たけど、やっぱり普通の人とは違った」
途端に青ざめていた実咲の顔が赤らんでいく。死にそうだった目に、光りが宿った。
「ひ、日野明輝っていうんだ、あの人」
日野明輝。そういえば名前だけは聞いたことがあるような気がする。
「好きなのか」
写真を持ち歩いているのだし、きっとそうだろうと思ったのだが、なぜだか実咲は俯いた。
心の中で舌打ちする。なにを間違ったのか。せっかく普通に話せていたのに、これではさっきと同じだ。人づきあいは難しい。
「ファンなんだろ?」
だから写真持ってたんだろ、と続けるとしばらく間を開けて実咲がようやく答える。
「……好き」
「やっぱり」
実咲はすでに耳まで赤い。きっと、よほど好きなんだろう。芸能人を好きになる感覚は宗太には分からないが、分かったところで意味はない。
「俺は、あまり芸能人には詳しくないからよく分からないけど、かっこよかったよ」
心からの賛辞だった。社交辞令であることも否定できないが、かっこいいと思ったのは事実だ。日野明輝を、というよりもむしろ実咲のことを褒めたつもりだった。
そんな宗太を見て、実咲はぽかんと口をあけていた。かっこいいじゃ物足りなかったか、それとも嘘くさかったかな、と不安に思ったが、実咲の目から涙が溢れ全てが吹き飛んだ。
「えっ、き、菊池くん?」
「……う、うえっ、ごめ、ごめん」
焦る宗太を余所に、とうとう実咲は本格的に泣きだしてしまった。わあん、と声をあげて子どものようにぼろぼろ泣くので、誰かに聞かれたらどうしようと焦った。
泣きやむまで待って、その日は途中まで一緒に帰った。
「僕、こっちだから」
そう言う実咲の手をつかんだのは、ほんの気まぐれだった。なんとなく放っておけなかった。死にそうな顔をしたかと思ったら、赤くなったり、青くなったり、泣きだしたり。見ていて落ち着かない気分になる。
「今度、よかったらうちに遊びに来て」
どうしてそんなことを言ったんだろう。無意識のうちに言葉は口から零れていた。
宗太の誘いに、実咲はくしゃりと顔を歪めた。また泣くのかと身構えたが、実咲は泣かなかった。泣きそうな顔で、うん、と微笑んだのが嬉しそうだったので、言ってよかった、と宗太は思った。