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7.

 宗太が選んだのは東京駅から普通電車を乗り継いで三時間程度かかる海の見える町だった。一歩外れれば、日本なんてみんな田舎だ。
 無職の状態での家探しは難航するかに思えたが、意外にも保証人なしで借りられる古いアパートがすぐに見つかった。ひとえに日野明輝からもらい受けた三百万のおかげだろう。
 そして適度に体重が戻っていたのもよかった。健康になってから職を探せと実咲は常々言っており、そのときは体重なんて関係ないと思っていたが、見た目の影響は大きいと実感してからは素直にありがたいアドバイスだったのだと感じる。
 鏡に写る宗太は、どこからどうみても真人間で、問題を起こすようには見えなかった。それを象徴するようにハローワークに足を向けると、すぐに小さな本屋のアルバイトが決まった。頑張れば社員登用も考えてくれるとのことだったが、今の宗太にはどちらでもかまわなかった。
 正社員にこだわっていたのは、いつか結婚したいという漠然とした思いがあったからだ。でも、きっと宗太はこれから結婚なんてしない。絶対にしない。
 もらった手切れ金は適当に家具をそろえても百万すら使いきれなかった。それらを返す、なんてことはせずに貯金した。プライドも見栄もない。なにも感じない。心は以前にも増して鈍かった。
 一人は慣れている。最初からこうすればよかった。東京なんかに行かないで。母親なんか助けないで。実咲になんか会わないで。なによりあのとき、手帳なんか拾わなければよかったのだ。友達になんか、なるんじゃなかった。
 そしたら、自分が寂しい人間なことも気付かずにすんだのに。
 電源を落としていた携帯電話はそのまま解約して新しいものに変えた。まっさらな携帯電話に最初に登録されたのは家主だ。しばらく使っていない母の電話番号は迷ったすえに登録しなかった。
 それで全てが消えてしまった。


 バイトを本屋に決めたものの時給は安かった。やはり条件の悪い職場は人気がないらしく、いつも人手不足の状態で、宗太は毎日のように働いた。そうしたら一ヵ月後くらいには正社員の話がきた。
 あれほど就職に困っていたのはなんだったのか。願ってもないことだと思いながら、宗太は返事を保留にした。そうしているうちにクリスマスが過ぎ、いつの間にか年を越す。月日が過ぎるのは驚くほど早い。
 自転車で職場へ向かう途中に、ふと違和感を覚える。体で感じる温度は昨日とさほど変わらないのに、目に写る景色がなぜか涼しい。不思議に思っていたが、近くの中学校に通う生徒たちの制服が夏服へと変わっているからだということには職場に着く寸前で気付いた。実咲と、初めて出会った季節だ。
 宗太は本が好きだ。友達のいない人間とって、本は暇つぶしにうってつけの材料になる。
 好きなものを棚に並べ、売る仕事は楽しかった。自分の気に入りの作者の小説が目の前で売れていくのを見ると、嬉しくなった。働くことは楽しいんだな、と漠然と思える。給料が安くても、これくらいが自分にはちょうどいいとも思った。
 だが、本屋には当然ファッション誌の扱いもある。芸能雑誌やテレビ情報誌やアイドル誌など、いたるところに芸能人の顔を見る機会があるため、時折目に優しくないものが視界を通り過ぎていく。
 この半年の間に、どれだけ『ミキ』が表紙の雑誌を見てきたか。もちろん、日野明輝も、いつものようになにくわぬ顔で笑顔を見せていた。
 かつて自分の前を通り過ぎてきた二人だが、あまりにも世界が違いすぎて、それまでのことは全て夢だった気もしてくる。
「中山さん、『ミキ』好きなんですか?」
 ぼんやりと実咲が表紙の雑誌を見ていたら、いつの間にか隣にいたアルバイトの野木に話しかけられた。専門学生の気さくな子で、物静かな宗太にも物怖じせずよく話しかけてくれる。
「……まあ、普通。野木さんは?」
「大好きですよ! チョコのCMが一番好きなんですよね。あそこまで正統派なのって逆に今どき珍しいですよね。王子様みたい」
 王子様。懐かしい言葉に、うわあ、と顔に熱がのぼっていくような気がした。未成年の女の子と同じような感想を自分は持っていたのだ。
「どうしたんですか?」
「え、あ、うん。王子様ね。確かに、美形だし」
「ですよねー。でもなんで辞めちゃうんだろ」
「え?」
 宗太の反応に、野木はきょとんと瞬いた。
「知らないんですか。一昨日くらいだったかな? なんか、事務所はしばらく休むだけって発表してるらしいんですけどね。まだまだこれからって感じなのに、もったいないですよねえ」
「えええええ!」
 思わず大きな声が出てしまい、慌てて口を抑える。普段静かな宗太のいつにない様子に、野木も驚いたように身を引いていた。
「すごい大騒ぎだったじゃないですかあ。テレビ見ないんですか?」
「テレビ、うちないから……」
「えっ、ないんですか?」
 そこで来客を告げるベルの音が鳴り、慌てて二人して作業に戻った。野木は、ミキの云々よりも、宗太の家にテレビがないことのほうに驚いているようだった。
 自分でも情けなくなるほど、ひどく動揺してしまい、その後うまくレジが打てたか自信がない。あまりにも挙動不審な様子に、店長からは体調が悪いのかと逆に心配されてしまった。
 仕事が終わり、気がついたら、宗太は帰りがけにある電気屋に寄っていた。
 テレビ売り場の前で止まり画面を凝視するが、都合よく芸能ニュースなどやっているわけがない。しかしそれでも粘っていたらコマーシャルで久しぶりに動く実咲を見つけた。まだ契約が続いているのか、相変わらずチョコを食べている。
 チョコを口に含み、恐ろしく整った顔立ちに、薄く笑みを浮かべる。
 こんな顔で笑う男だっただろうか。まるで別人に見えた。笑っているのに、笑っていない。それでもやっぱり綺麗な顔をしている。そうだ。「王子様」だ。
 辞める。実咲が、テレビや雑誌から消える。
 心臓がうるさく鳴りはじめる。事務所の独立とか、役者とか、日野明輝が言っていた小難しい話が頭の中をぐるぐると巡る。
 日野明輝は、実咲を芸能界でしか生きられない人間だと言っていた。宗太もそう思う。あんな綺麗な顔の男が、サラリーマンや、宗太のような販売員をやっていたら浮くに決まっている。それに頭も悪そうなので、仕事もできそうにない。それなのに、実咲は芸能界を辞めるという。芸能人としてしか生きられないのに、いったいなにをして生活しようというのか。
 長い間、その場でテレビを見ていた。おもしろいのかおもしろくないのか、よく分からないバラエティが終わったところで、ようやく足を動かす。帰りたくない。そう思いながらのろのろと自転車をこいだ。
 狭くて古いワンルームのアパートを、宗太は気に入っている。見栄を張る必要などなくなった自分には申し分ない部屋だ。宗太はもう、誰かと比べたり、女性を招きいれたりする必要がない。生活するためだけの部屋。その部屋の前に、ドアを塞ぐようにして誰かが座っていた。
 膝に顔を埋めている。見覚えのある、色素の薄い髪。
 思い返せば、今日はよく、実咲を思い出す日だった。
 実咲が表紙の雑誌があっても、店内を歩いているときはできるだけ目にとめないようにしているのに、なぜか棚の前で立ち止まってしまった。野木さんと、思いがけずミキの話をした。
 電気屋で無駄に時間を潰していたのは、こうなる予感があったからだろうか。
 不安か、期待か。薄暗くて掴みどころのない思いが、男を見た瞬間にどろどろと溢れだしてくる。無視をしようにも、男はドアにべったり寄りかかっているのでどうしようもない。角部屋でよかった。通り道にこんな人間がへたりこんでいたら、迷惑にも程がある。
「……実咲」
 声が掠れた。震える手のひらを固く握りしめる。
 呼びかけると、ぴくりと動いた。間違いないはずなのに、実咲は顔を上げない。大きな体を折り曲げ、俯いたままだ。
「辞めたって、本当?」
 静かに問うと、返事はないながらも反応があった。そのわずかな体の動きで、野木の言っていたことが本当であることを知る。
「なんで?」
 ようやく、ゆっくりと実咲が顔をあげた。宗太の前で、いつも光りを宿していた目が死んだように濁っている。少し、痩せた気がした。
「どうして、宗ちゃんがそれを聞くの?」
 弱々しい声だったが、懐かしく響くそれに泣きそうになる。実咲の目が宗太を捉え、くしゃりと歪んだ。ひどい顔だ。これじゃ、コマーシャルに出られないし、王子様とも呼んでもらえない。
「どうして、いなくなったの?」
 理由は言わずに、ごめんと謝った。
「宗ちゃん」
 実咲が、大の男とは思えない、幼い声を出す。背後から、かつんかつん、と階段を上る音が聞こえ、慌てて実咲を立ちあがらせた。
 どうしても「芸能人だ」という意識が先に立つ。実咲は、ファッション誌の表紙を飾り、チョコレートのCMに出て、野木さんにまで顔を知られているような男だ。普通じゃない。まさかこんなところに有名人がいるとは思わないだろうが、咄嗟に実咲を部屋の中へと招き入れていた。
 玄関のドアを閉めた瞬間、実咲は力が抜けたようにずるずるとしゃがみこんでしまう。
「そうちゃん。宗ちゃん、宗ちゃん」
 宗太の顔を見ようとせず、名前をひたすら繰り返す実咲に罪悪感がこみあげてきた。
 自分は、もしかしてひどいことをしたんだろうか。
「ごめん、ごめん宗ちゃん」
「……なんで、実咲が謝るんだ」
 あれだけよくしてもらったのに、勝手に出て行ったのは宗太だ。もしかしたら、実咲は宗太を恨むかもしれないと思った。これまで以上に、ずっとずっと恨むかもしれないと思った。
 それなのに、実咲は宗太をなじったりせずに謝罪の言葉を繰り返す。
「僕が悪かったんだ。宗ちゃんの気持ちを考えてなかった。焦ったんだ。宗ちゃん、嫌だってずっと言ってたのに、でも最後にはきっと許してくれるだろうって、調子に乗ったんだ。ごめん。ごめんなさい。もうしないから、許して。宗ちゃん、」
 捨てないで、とくぐもった声がする。自分のような男に必死ですがりついてくるような人間がいることが信じられない。
「とりあえず、あがって」
 帰すわけにもいかず中へと促すと、宗太は顔をあげ濡れた目を瞬かせた。大きな体を縮こまらせて「いいの?」と許可を求める姿はまるで犬だ。実咲のマンションとは比較にもならないほど、狭くて古いワンルームに入ることをためらい、玄関先で蹲っているのかと思うといじらしい。けれど、そのいじらしさが、よけいに宗太を混乱させる。
 敷きっぱなしになっている布団をたたみ、隅のほうへ片付けた。いくら以前よりも輝きが失せているとはいえ、実咲のような男がこの部屋にいるのは異様だ。
 少し離れた場所で、宗太も腰を下ろす。
「どうしてここが分かった」
「……興信所を使った」
 お茶すら用意しなかったのは、自分の中で線引きしたつもりだった。実咲は怯えるように膝を抱えていて、罪を白状するように絞り出した声は切ない。これまで、いろんな実咲を見てきたつもりだったが、こんなに痛々しい声を聞いたのは初めてだった。
「なんで、……今さら」
「本当はすぐに来たかったっ」
 癇癪を起したような子どものように、声を荒げた実咲だったが、すぐに「ごめんなさい」と謝る。自分よりもでかい男が、ぐずぐずと涙を流している。
「家に帰ったら、宗ちゃんの荷物が消えてて、なにもなくて、どれだけ待っても宗ちゃんは帰ってこなくて……。あれから、なにも手につかなかった。でも、仕事は山のようにあるし、本当にしんどかった。宗ちゃんのお母さんに電話したんだけど分からないって言われた。だから、業者に頼んだ」
「母さんに、電話したの」
 怒ったりしないのに、実咲はあきらかに怖がっていた。怒ったりはしない。でも、母親のことを思い出すのはつらかった。実咲に、母親のことを言われるのは苦しい。
「そこしかないと思った。宗ちゃんにとって、お母さんは特別だったから」
 マザコン、と言われた記憶が蘇る。違うと言われても、謝られても、捨てても、捨てても、現れる。
「宗ちゃんは、お母さんにどれだけひどいことされても、嫌いになれないんだ。放っておかれても、お金をとられても、結局また助ける。僕は宗ちゃんのお母さんが嫌いだったよ。大嫌いだった。宗ちゃん、お母さんにすごく優しいから。たくさん傷つくのに、それでも手を差し出す。お母さんには自分は必要なんだって言う。絶対に勝てないと思った」
 でも、と実咲は静かに続ける。
「それなのに、全部捨てたんだね。僕のことだけじゃなくて、お母さんのことも、全部」
 実咲が顔をあげ、濡れた瞳を見せた。
「そんなに、嫌だった? お母さんまで捨てられるくらい、僕のことが嫌だったの?」
 なんでもする、と湿った声がした。
「なんでもする。なんでもするから、どこかに行かないで。一緒に住まなくてもいい。遠くに居てもいい。でも、知らないところに行かないで」
 ぱた、と畳に何かが落ちる。水だ。はっと息をのむ。中学のとき、転校が決まったと告げたときの、幼い実咲の泣き顔と重なる。
「…………捨てないで」
 実咲の顔を見ながら、からからに乾いた唇を、一度舌で湿らせた。
「実咲は、俺をどうしたかったんだ?」
 緊張のせいで、宗太の耳にも自分の声が冷たく響く。
 大きく、実咲が肩を震わせた。
「家事をさせるだけで、金も受け取ろうとしないし、仕事を探そうとしてもまだ早いって言うし、あれじゃまるでペットだ。それに、……あ、あんなふうに触って」
 耳が熱くなるのを、手を顔に当てることでごまかした。興奮するな、と思っても気持ちが高ぶっている。
「愛人を囲っているように見えるって言われた。本人がそうじゃなくても、外から見たらそう思うって。確かにそうだなって思った。あんなふうに、触られて、変な声出して」
 まるで全部実咲が悪いみたいな言い方だな、と冷静な自分が口を出す。お前だって、本気で嫌がってなかったじゃないか、と、頭の中で声がした。
「……実咲がなにをしたいのか、全然分からなくて、俺のことを恨んでるって聞いて、ますます分からなくなって」
「恨んでる?」
 宗太の言葉に、実咲が怪訝に眉を寄せるのに気付かず、弱々しく宗太は頷いた。実咲が宗太を恨んでいる、と日野明輝から聞かされたときに、思い浮かんだのは捨てられたときの自分の姿だ。
 ――もし。もしも、実咲のことが好きになって、実咲なしでは生きていけないようになって、家事以外になにもできなくて、ただひたすらあの部屋で実咲の帰りを待って、それしかできなくて。そんなときに、ゴミのように捨てられたら、きっと死ぬ。死んでしまう。
「それに、俺がいたら誤解される。実咲は有名人だし、ホモだなんて噂されるのは嫌だ。それだったら、自分から出てったほうがいいと思った。会う前に戻りたかった。俺なんかいなくても、実咲はすぐに忘れると思った。実咲は、芸能界で大きくなれるって聞いた。まさか、探しに来るなんて――」
 言葉が途切れる。涙に濡れた目が、射抜くように宗太を見つめているのが恐ろしい。それ以上、なにも言えなくて口をつぐんだ。逃げるように目を反らすが、実咲からの視線は痛いほどに感じられた。
 重い沈黙を破ったのは、実咲だった。
「宗ちゃんは、僕が宗ちゃんを恨んでると思ったから出てったの?」
 幼い口調が懐かしく、目を伏せた。
「僕が変なことしたからじゃないの?」
「……は?」
 訝しげに首を傾げると、実咲のほうも眉を顰める。
「宗ちゃんのお尻に、僕が指を入れたから……」
 あけすけな言葉に絶句して、みるみるうちに顔に血が上った。宗太の目がだんだん据わっていくのを見て、実咲が焦り出す。
「ご、ごめん! だって急に恨んでるなんて言い出すから。え? なに、それ、日野さんが言ったの?」
 あっきー、という呼び名が染みついてしまっているため、一瞬誰のことを言っているのか分からなかった。
「日野さん?」
「あ、あの、日野明輝だよ。あっきー、あっきー」
 軽い言い方が奇妙だ。宗太が頷くと、むっとしたように実咲の目が険しくなった。会えないと言われていたのに、それを破ったから気を悪くしたのかと思った。
「あっちから訪ねてきたんだ。会いたくて会ったわけじゃない」
 咄嗟に言い訳が口をつくが、それに実咲が首を振る。
「日野さんが宗ちゃんに会いに行ったのは、聞いた。それは、もういいんだ。いや、よくないけど、今はいい。でもそんなこと言ってたなんて……」
 淡々とした言い方が逆に怖い。
「恨んでるなんて、そんなの、宗ちゃんに会う前の話だ」
「やっぱり恨んでるんじゃないか」
「だって!」
 急に強い視線を向けられ動けなくなる。いつの間にか、実咲の目には前のような光が戻っていた。
「あのとき、転校するって聞かされたとき、泣いてるのは僕だけで、あれだけ行かないでって言ったのに、宗ちゃんは頷かなくって、それどころか、新しく友達を作れとか言ってきて、……すごくショックだった」
 ゆっくりと実咲が距離を詰めてくる。逃げようにも狭いワンルームでは行き場がなくて、宗太はそこに固まっていた。
「寂しいのは僕だけかと思った。芸能人になればいいなんて、勝手なこと言うなって。ねえ、あのとき、宗ちゃんなんて言ったか覚えてる? 芸能人になってあっきーと友達になれば、もう自分のことは必要なくなるって言ったんだ。そんなこと、あるわけないのに。宗ちゃんが、僕から必要なくなるなんてこと、絶対にない。でも、宗ちゃんは違うんだって思った。あのとき、宗ちゃんの中では、優先順位が僕よりもお母さんなんだってことに気付いて、すごく、すごく悲しかった」
 じりじりと実咲の体が近付いて、宗太の指に自分のそれを重ねた。指先の冷たさに実咲の緊張を知る。
「許せないなんて言ったのは、僕が子どもだったからだ。僕には宗ちゃんが特別だったのに、宗ちゃんはそうじゃなかった。そのことが悔しかったし、恥ずかしかった。宗ちゃんと別れてから、これまでずっと宗ちゃんのことだけ考えてたよ。街で、そっくりな人を見つけて、ついていったなんてこと、何回もある。そのたびに、違う人で落ち込んでたけど、でもあの日、コンビニの近くで宗ちゃんを見つけた。知らないでしょう。あのとき、どれだけ僕が嬉しかったか、宗ちゃんには絶対に分からない」
 手が掴まれる。心臓が痛くて壊れそうだ。
「好きなんだ」
 触れている手のひらに意識がいっていて、一瞬なにを言われたか分からなかった。小さな告白に、宗太は思考が完全に止まった。
「……え?」
 おかしなことを聞いた気がした。宗太に釣られるように、実咲も怪訝そうに眉を寄せる。
「実咲って、俺のことが好きなの?」
 ぽつんと落ちた言葉に、実咲が目を見開き固まる。その瞬間、間違った、と思った。急いで「ごめん」と謝る。勘違いに、首まで熱がせりあがってくるのを感じた。
「本当にごめん、そ、そんな意味じゃなくて」
「なに言ってんの? なんで謝ってるの? 好きだよ、大好きだよ。えっ、なんで今さらそんなこと聞いてるの?」
 真剣な目には焦りも浮かんでいる。好きだと言われるのは、単純に嬉しい。
 でも実咲の「好き」なんてたかが知れている。勘違いはしたくない。それなのにあんまり実咲が体を揺するものだから、ぽろっと言葉が漏れた。
「それは……と、友達として?」
 宗太としては真面目に確認したつもりだったのだが、あからさまに実咲が脱力した。そして宗太を睨むといきなりキスをしてきた。合意のない突然のそれに、これじゃあ前と一緒だと手で体を押し返す。
「ちょ、真剣に話してるんだ」
「こっちだって真剣だ!」
 初めて聞いた、実咲の怒気を含んだ声にたじろぐ。
 驚いて固まる宗太の肩をガッチリと掴んだ宗太の目は、今にも噛みつかれそうなほどぎらついている。
「なんで今まで僕が宗ちゃんを触ってたと思ってたの? 僕が好きでもないのに、宗ちゃんにあんなことしてると思ってたの? え、なに、そんなの僕、ただの変態だし、昔の友達に手を出すひどい男じゃないか。もしかして、宗ちゃんの中の僕って、そんな男なの? それとも単なる友達と、宗ちゃんはキスをするの?」
 そこまで言うと、実咲は急に眉をひそめた。そして、おそるおそる、真剣な顔で「え、もしかして本当にそうなの?」と確認してくる。ひく、と眉がひきつる。
「ち、違う!」
「じゃあなんでそんな話になるんだよ!」
 じと、とねめつけるような視線に身を引くものの、宗太のほうにも言い分はあった。
「だって、昔から実咲はよく抱きついたりしてきたし、スキンシップも多かったし、その延長なのかと……」
「でも昔は、乳首やちんちん触ったり、お尻に指いれるようなことはなかったでしょ!」
(ちっ)
 あまりにも直接的な言葉に絶句する。
 そんな言葉、実咲の口から聞きたくなかった。
「宗ちゃんは今まで僕がしていたこと全部スキンシップの続きだと思ってたの?」
「だって、す、好きだなんて言わなかったじゃないか。勝手に触って、勝手に変なことして!」
 叫ぶように宗太が訴えると、実咲が首を傾げ「嘘?」と呟く。
「言ってなかったっけ? うそだ。いや、たとえ言ってなかったとしても、普通分かるよね?てっきり、伝わってるもんだと思ってたんだけど……」
 好意は分かりやすかったが、それが恋愛に直結するとは思わなかった。
 だって、実咲はあんなに可愛くて、それこそアイドルの話ばかりしているようなやつで、実際の恋愛になんか興味ないような態度だったし、あれだけ一緒にいたというのに、一度も恋の話なんかしたことない。
 頬を赤らめ、手の甲で口元を押さえる宗太を、実咲がせっぱ詰まった様子で見つめてくる。壁際に押さえこまれ熱っぽい言葉を紡ぐ。実咲のほうも、宗太の言葉になんらかのショックを受けたらしい。目が本気だ。
「好きだよ。本当に好き。ねえ、一緒に暮らそう。離れたくないよ。仕事も辞めたし、僕がここに住んでもいい。なんでもする。宗ちゃんのためだったら、なんだってできるよ。お願い、そばにいて」
 ついさっきまでは遠くにいてもいいとか言っていたくせに、いつの間にか要求が図々しくなっている。突っ込むところであるのに、唇が震えた。
 いやいやと首を横に振ると、子犬のように実咲が眉尻をさげた。そんな顔を見たくなくて、焦りが声に出る。
「また、嫌いって言われたらどうすればいい」
 じわじわと涙がたまるのが分かる。それに気付いたのか、実咲が目を丸くした。
 大嫌い、と言われたことを、ずっと引きずっているなんて馬鹿みたいだ。謝ってもらったし、違うとも言われた。
 それでも、宗太にとっては苦い記憶だ。再会できてどれだけ嬉しかったか宗太には分からないと実咲は言った。でも、実咲だって、宗太が実咲に嫌われることにどれだけ怯えているのか分からない。絶対に分からない。
 こんなに離れることが辛いなら、もう友達なんて、絶対にいらないと思った。
 実咲が俯く宗太の顔をのぞきこむ。めがねを奪われ、吸い込まれるように瞳を閉じた。柔らかな唇が重なる。
「言わないよ」
 睫毛の長さが分かる距離で、見つめられる。実咲の髪はぼさぼさで、痩せたせいか頬がかすかにこけていた。でも、実咲は実咲だった。宗太の知っている、実咲だった。
「そ、それじゃあ」
 つつ、と実咲が指の腹で顎のラインを辿る。繊細な指の動きに、ぞくぞくと背中が震えた。
「本当に、俺が好きなの?」
 そう問うと、下から熱を持った視線を向けられた。手が伸びて、宗太の首に絡みつく。
「好き。好き。大好き」
 言い聞かせるように何度も囁かれ、耳を舐められ、電流が走ったように体が震えた。
「あのときから、ずっと宗ちゃんだけだよ」
 ぎゅう、と抱きしめられ、顔が熱くなる。包み込まれる熱が温かい。恥ずかしいし、心臓の音がうるさいけれど、そんなものがどうでもよくなるくらい、実咲の体温は心地よかった。
「宗ちゃんは?」
 甘えた声に、うっすらと目を開けた。
 求められている答えを、自分が口にしていいのか分からない。分からないまま、実咲のシャツを握りしめた。はっきりとした言葉をもらえたことの安心が、行動に出る。
 単純な実咲は、好きなんて言ってないのに、嬉しそうに目を細めた。
「実咲は、男が好きなのか」
 今さら、基本的なことを聞いてみる。
 オカマだと笑われ傷ついていた過去が実咲にはある。オカマじゃないと実咲は泣いていたはずだ。
 だが、よくよく考えると、日野明輝が実咲のことを「女に興味がない」と言っていなかったか。あのときは単に仕事に夢中でという意味でとらえていたけれど、実際は同性愛者ということだったのだろうか。でも、もしゲイだったとしても、もともと実咲が好きなのは日野明輝のような男前だったのに。
 太陽のように輝く、日本人離れした美しい男。地味な宗太とはあまりにもかけ離れている。自分が相手でいいのだろうかと、やはり頭の隅で思ってしまう。
「僕は宗ちゃんが好きなんだけど」
 甘い言葉に頬は熱くなるものの、納得はできずにいると実咲が困ったように眉を下げる。
「まあ、男が好きかって言われたら、そうなんだろうな。宗ちゃん男だもん。でも、もし宗ちゃんが女の人だったらゲイじゃなかったかも。僕がゲイなのは宗ちゃんのせいだよ」
 悪戯っぽく笑い、こめかみのあたりにキスをする実咲に、「あっきーは?」と尋ねると、見事に動きが止まった。
「なんで日野さんが出てくんの?」
「だって、好きだったじゃないか」
 不機嫌そうに言う実咲に戸惑っていると、男は大きなため息をついた。
「嫌いじゃないけど、アイドルとしてだよ?」
「嫌いじゃない?」
 予想外の言葉が出てきて目を見開く。「好き」と「嫌いじゃない」の差はでかい気がするのだが、それでもあっさり実咲は頷いた。信じられない。あのとき、宗太に、たかだか夢をひとつ見ただけで三十分以上も熱弁をふるっていた実咲はどこにいったのだ。
「でも、だって、実咲、俺があっきーに会うの嫌がったじゃないか」
 あっきーには会えないよ、と、会うつもりもないのに言われた。媚びる人間に思われたようで傷ついた。
「それはだって、宗ちゃんが日野さんとつきあったら困るからでしょ」
「はあ?」
 予想外の答えに、思わず素っ頓狂な声が出る。驚きすぎて、少し涎も出た。
「日野さんだって、宗ちゃんに会ったら絶対に好きになるよ。そうなったら勝ち目ないじゃん。宗ちゃんもあっきー好きなのにさあ」
「好きじゃない好きじゃない好きじゃない。いや、嫌いじゃないけど、それは実咲の影響で気になってただけで、そもそも好きって、」
「だってお弁当買ってたじゃん! 日野さんのドラマのやつ!」
 そんな前のことを蒸し返すなんて、実は気にしてたのか。
 呆れて苦笑が漏れる。馬鹿だ。あはは、とついには声を出して笑いだした宗太に、じゃれつくように頭や目元に実咲がキスを落としていく。
 笑い事じゃないよ、とぐりぐりと頭を押し付けられて、くすぐったさに身をよじった。
「あっきーはみんなのものだよ」
 されるがままになりながら、実咲の言葉が懐かしい記憶と重なるのを感じた。同じようなことを、以前実咲は言っていた。
「あっきーは、みんなのものだから安心するんだ。あのとき、僕があっきーを好きだったのは、あっきーがファンを大切にしてたからだ。僕が誰に好かれてなくても、あっきーだけは好きでいてくれる。顔も性格も関係なくて、みんなを平等に愛してくれる。そういうのが、安心できたし、好きだったんだ。でも、」
 実咲が目を細めた。
「宗ちゃんは違う。そう思ったとき、自分は男が好きなんだって思った。みんなが言ってたおかまってのは本当のことだったんだって。気付いたのは宗ちゃんが転校した後で、男が好きなのに宗ちゃん以外はどうでもよくて、しょうがないから、宗ちゃんの言った通りのことをしようと思った。めがねを外して、前髪を切った。友達っぽい人もできたよ。もう、忘れちゃったけどね。東京に戻って、芸能人になった。あっきーにも会った。でも、全然駄目。僕の人生、宗ちゃんのせいでめちゃめちゃだ」
 あっきーはみんなのものだけど、宗ちゃんは僕のものだよ、という声とともに腕が回され口を吸われた。
 そのまま絡みつくようなキスをされる。ちゅ、ちゅ、と水っぽい音が響く。頭がぼうっとしてきたときシャツの中に実咲の手がもぐりこんできた。
「実咲っ」
 非難めいた声もキスに遮られる。胸の突起を先端の周りをなぞるように撫でるのがむずむずして変な感じがする。耐えるように息を詰めていると、シャツをたくしあげられいきなりねぶられた。「んっ」とあがる声を慌てて押さえる。
「宗ちゃん、僕と一緒に東京に帰ろう」
 体を押し付けられて、実咲の昂りを嫌でも感じてしまう。でも宗太も実咲のことなど言えるわけなく、触られるだけで自身の熱が増していくのを感じていた。これまでと、体が違っているようだ。触られている部分が、どこもかしこも熱い。
「日野さんが独立したがってたのは知ってるでしょう? そこでさ、宗ちゃんが働いてくれたらいいのになって思ってたんだ。でも、日野さんには会わせたくないし、ぐずぐずしてたら宗ちゃんは就職活動しはじめようとしてるし。本当はもっとじっくり、宗ちゃんの体を慣れさせていこうと思ってたのに、出てっちゃうし」
 前をくつろげられ、すっかり勃ちあがった宗太のそれを手のひらで包み込み、ぐりぐりと先端を指で遊ばれる。ここまでは、宗太がまだ知っている感覚だった。けれど、今までの比じゃないほどに感じる。そのことが実咲にも伝わっているのか、ときおり「すごい」と感想を漏らす。それが恥ずかしくて首を横に振った。
「駄目? どうしても? 日野さんに変なこと言われたから? 大丈夫、あの人、なんだかんだ押しに弱いから。宗ちゃんが辞めるなって言うから辞めるの止めるって言ったら、むしろすごく感謝されると思うよ」
「ちがっ、」
 首を振っているのは快感を散らすためだ。実咲の話など半分も分かっていない。肩で息をしていたら、あっという間にズボンを引き抜かれた。
 床に横たえられるが、畳なので背中はあまり痛くない。むき出しになった足を開かされ、恥ずかしいところが晒される。
 実咲の指が、勃起している性器の裏筋を撫で、袋を揉みしだき、そして指が窄まりへと移動した。
「やあっ、あ、それ、やだ……っ」
 ぬめった感覚に体が震えた。ぬるぬるとしているこれはなんなのか、うっすら目を開けると宗太が冬の間使って放置していたハンドクリームが目に入った。いつの間に見つけたんだと、詰りたくなる。
「あ……っん」
 ゆっくりと、指が中に収まった。自分の中で、実咲の指の長さを感じてしまうのが恥ずかしい。くち、くち、と押し広げられる音は卑猥で、唇を噛んでいたらキスされた。
 前に経験があるからか、実咲は、宗太の感じるポイントを容易く見つけてしまう。声を殺そうとするのに、前立腺と性器を弄られて、堪え切れない甘ったるい自分の喘ぎ声が耳に届いた。
 指が三本にまで増え、充分すぎるほど解きほぐされたそこに、固いものがあてがわれた。
 驚いて目を開ける。実咲が自分の反り立つものを宗太の中に入れようとしていた。
「む、無理っ」
「大丈夫だよ。慣らしたから」
 みちみちと固いものが入ってくる感覚に息を詰める。苦しいばかりではないのが信じられない。指でじれったいほどに柔らかくされていたせいか、圧迫感はあるけれど痛みはひどくない。
 浅いところで、軽く揺すられる。そんな器官じゃないのに、気持ちよさに声が上がった。ゆっくり、ゆっくり、実咲の腰が進められ。内壁を擦りながら、熱いものが中に入ってくる。
 息をつめる宗太に気付いた実咲が、唇を舐めてきた。キスは好きだ。こめかみにされるのも、鼻の頭にされるのも、唇にされるのも、大切にされているような気がする。
 自分は、こんなふうに、誰かから大切にされたかったのかもしれないと思った。
「入ったよ」
 掠れた声が、耳に聞こえた。
「全部入ったよ」
 そう言って、実咲は宗太が落ち着くまでそのままで待っていてくれた。何度もキスをされた。目尻を吸われ、舐められ、いつの間にか自分は泣きだしていたことに気付く。暗い部屋に嗚咽が響いているのが自分のものだと時間が経ってから分かった。
 繋がっている部分が熱い。
「動いていい?」
 その言葉に宗太は恥ずかしさも忘れて頷いた。初めて、自分から許した。
 実咲を感じたい。一番深いところで繋がっていたい。そして、自分だけじゃなくて、実咲にも気持ちよくなって欲しい。
 前後に揺すられるのは、慣れない体に辛かった。辛いけど、胸が満たされていく。すがりつくように回した手が、実咲の背中を引っ掻いた。
「ね、一緒に暮らそう? ずっと、一緒にいよう? 傍にいてよ」
 なにも考えられなくて、耳に入る言葉は夢物語にも思える。夢の中ならば、と甘える気持ちで何度も首を縦に振る。目を開くとぼやけた視界に実咲が見えた。無我夢中で、キスを求め、自ら舌を絡める。苦しげな実咲の声が聞こえたかと思ったら、宗太の中で熱いものがはじけた。
「あっ」
 ひときわ高い声をあがる。直後に実咲の手で扱かれ、宗太も果てた。
 濃厚な空気が満ちる部屋で、宗太は気を失った。


 絶対聞こえた、もう外を歩けない、と頭を抱える宗太の体を実咲が丁寧にぬれタオルで拭いていく。上機嫌なのが気恥かしくて、よけいに顔をあげられなくなった。
「最悪。ここ壁薄いのに。絶対聞こえた」
「大丈夫だよ、どうせすぐ引っ越すんだから。いつ引っ越す? 僕としては、今週までにはうちにきてほしいんだけど」
「……え?」
「え?」
 沈黙が落ちる。しばらく見つめ合っていたら、笑顔だった実咲の口角がひくりと引きつった。
 壁が薄い、と言ったばかりなのに瞬間、実咲が爆発する。
「言ったじゃん、一緒に暮らすって」
「覚えてないし! そもそも俺仕事あるし。やめろよ、お前、大きな声出すな」
「ひどい!」
 わめいて腰に手を回してくる実咲を疲れた体で必死に押し返しながら、笑いをこらえる。
 宗太がいればいいと言って、ミキを簡単に捨てた実咲だが愛しい。
 けれど宗太はミキが好きだ。あっきーに憧れていた実咲と同じように、ミキを見ていた。
 ミキはテレビに映る誰とも違う。かっこよくて、美しくて、「王子様」みたいだ。本屋の仕事は気に入っていたけれど、まだ実咲がミキを続けてくれるのだったら、一緒に東京に行くのも悪くない。
 自分も実咲の傍にいたいのだという思いに確信を持ちながら、けれどもう少しだけ、実咲に望まれていたかった。
 意地悪なことをしている気分になり、謝罪の意味も込めて、うるさくわめく実咲の唇に自分からキスをした。ぱち、と瞬きをする幼い顔を、とても好きだと思った。