6.
朝になって目を覚ましても、宗太は起き上がらなかった。駄目だと思いながらも、実咲と話がしたくなくて無視を決め込む。実咲に触られることはたびたびあった。性器を扱かれたことも初めてではない。でも、昨日みたいなことは初めてだった。
(あんなとこで……)
尻の穴を使うなんて、未知の体験だ。想像したこともない。
射精までしてしまったのだから、気持ちよかったのは間違いない。けれど、それが怖かった。
実咲は、昨日「先にいってみよう」と言った。そしてあんなことをした。まだ、終わりじゃない。男同士のやり方だけなら、いくらなんでも宗太だって知っている。そして、実咲が昨日尻を弄ったのは、明らかにその先、セックスへの準備に間違いないように思えた。
そんなことになったら、きっと自分は拒めない。
拒んだとしても、きっと実咲は昨日みたいに強引にことを進めてしまう。嫌だと言っても、きっと聞いてもらえない。
実咲は出かけなければいけないぎりぎりの時間まで宗太の横で機嫌をとるよう甘い声をかけていたが、最後には諦めて軽いため息をついた。
「もう仕事だから行くね。今日は帰りが遅いんだけど、おでん、残しといてくれる?」
枕に顔を埋めたまま頷くと、近くで実咲が笑う気配がした。その顔を見たいと思ったけれど、ぎゅっと手のひらを握って耐えた。
一人残され、しばらくそのまま寝そべっていたが、いつまでもこうしていられないと体を起こす。カーテンは閉められている。宗太が寝ているときに、実咲がカーテンを開けて眠りを邪魔するようなことはない。隙間からは、日差しが差し込んでいた。
実咲が出かけてしまうと、残された時間、宗太には家事しかやることがなくなる。しかも今日は夕飯の用意すらいらない。
立ち上がり、寝室を出るが、それだけで尻のあたりに違和感があった。動くけば動くだけ、昨日のことを思い出してしまいそうで、掃除をすることもやめにした。
余った時間、なにをしようかと思い、ふと、リビングのところにある本棚を探る。
四段ある小さな本棚は、実咲が用意してくれた、宗太専用の本棚だ。時間の余る宗太のために、実咲は宗太が好きだと言った作家をメモして、頻繁にお土産として小説を買ってきてくれる。
せめて代金だけでも払おうとするのだが、これまた「引っ越し費用を貯めなくちゃ」という言葉で受け取ってもらえない。今の自分では、本一冊好きに買えないのだ。
(だいたい、その引っ越し費用は、どこで捻出しろっていうんだ)
家賃も生活費も、その他雑費にいたるまで、全てを実咲に頼っているので、宗太自身が払っているのは保険と年金くらいのものだ。失業保険は微々たるものだが、確かにちょっとずつだったら貯金もできる。しかし、引っ越しとなるとそれだけでは道のりは程遠い。
それに、このまま実咲の傍にいるのは危険にも思えた。昨日のことがいい例だ。
慌てて小説を手に取る。考えすぎるのはよくない。よくないことが起こる。
ぺらぺらと適当にページをめくり、実咲のことを無理にでも頭から締めだそうとする。あんまり実咲のことを考えたら、泣きたくなる。その原因をつきとめるなんて危ないことは、絶対にしたらいけなかった。
ソファに寝転がり、小説を広げた。
けれど、いくら文字を追ってストーリーを理解しようとしても、実咲の顔が割り込んできて集中力を奪っていく。五ページもいかないところで諦めて、横のテーブルに置いた。
もう今日はなにをやってもうまくいかないんだろうと、最後の手段で、腕で目を覆って眠ろうとする。静かな部屋は、落ち着かなくて、下半身に残る違和感が昨日のことを嫌でも思い起こさせた。
どれくらい時間が経ったのか。なにもせず寝そべるだけでも時計の針は進む。
眠くなるわけでもなくボーっとしていたら、玄関のチャイムがなった。
郵便物が届くことはほとんどないから、宗太が頼んだものでもない限り訪問客は無視しろと言われている。立ち上がりもせずにそのままの姿勢でいたら、玄関のドアががちゃりと開く音が聞こえた。
実咲が帰ってきたのかな、と考える。寝室に逃げ込むべきかとも思ったが、体を動かすのは億劫だった。
(遅くなるんじゃなかったっけ)
ていうか、最初から鍵使えよ、とわざわざチャイムをならして入ってきた家主の顔を確認するため、足音に振り返ると、そこにいたのは宗太が想像もしなかった人物だった。幻かと思った。
「やっほう」
「あ、あ、」
男らしい顔立ちに、いまだ少年っぽさを残す黒い瞳。鍛えているらしい体はなるほどがっちりしていているが、背が高いためにスタイルがよく見える。なにより、オーラが普通の人とは違った。
コンビニ弁当のパッケージで見たときには、そのままうまいこと成長したな、としか思わなかったが、とんでもない。自信と経験が加えられたその人は、体の内からエネルギーを放っている。
「……あっきー?」
驚愕して目を見開く宗太に、わざとらしくあっきー、もとい日野明輝がウインクした。ウインクができるなんてやはり只者ではないと思いつつ、宗太はドン引きした。
「なるほどな。お前が、あれか。『宗ちゃん』か」
立ち上がり呆然とする宗太を気にするでもなく、でかい態度のままソファに腰を下ろす。隣に座ることなんてできずにそこを離れ床に膝をついた。頭の中が混乱している。
「な、なな、なんで俺のこと……、いや、なんでここに、え? 本物?」
「鍵はミキからぱくってきた。あいつ馬鹿だからな。そっと返せばばれねえし。ここに来たのは、お前に用があったんだ」
ミキと実咲が一致するまでに数秒かかった。その間にどんどん話は進んでいく。
「中山宗太。旧姓、草野宗太。もと自動車工場職員でただいまニート。いや、ヒモか? ミキの中学時代の同級生だろ」
ドヤ顔でぺらぺらと喋る日野明輝を見やる宗太の顔はさも間抜けなものだったろうと思う。テレビでも見ているようだったけれど、日野明輝はドラマに出ているときよりも人間くさく、バラエティに出ているときよりもふてぶてしかった。芸能人の口から自分の名前が出てきたことに新鮮な驚きを覚える。声に馬鹿にした響きも含まれていたが、不思議と悔しいとは感じなかった。ちっとも馬鹿にした様子のない実咲には、勝手に比較して落ち込んだりしていたのに、不思議なものだ。
「話がある。ミキのことだ」
整った顔ではあるが、実咲とは違い骨が太く男っぽい。王子というよりは、海賊を思わせるような好戦的な顔立ちだった。
「分かっていると思うが、あいつは頭が悪い」
そんなことは言われなくても知っている。腕を組んでふんぞり返っている日野明輝の言葉に、おそるおそる頷く。
「頭がポンコツだから、事務所は無口なキャラで売り出していこうと決めたらしいが、大正解だな。これでいけるところまでこれでいくしかない。考えてもみろ。顔以外取り柄のない男だ。あれで人見知りしなけりゃホストで稼げたかもしれねえが、あいつは女に興味はないし。かといって男相手の商売もできない。すぐに感情が顔に出るんだ。素直と言えば聞こえはいいが、普通はあんなのは社会じゃやっていけない。つまり芸能界でしか生きていけない」
(確かに)
芸能界でしか生きていけない、という言葉になぜかひどく納得した。
中学時代、お世辞にも実咲は勉強ができるとは言えなかった。今でも人見知りはなおっていないのだろうことは容易に想像がつく。きらびやかな世界に生きているわりに、仕事が終わればすぐ帰ってくるし、断りきれない飲み会などに参加はしても、帰ってきたときには疲れ切っていたし、とても楽しそうには見えなかった。
成長した姿の実咲はいくぶん性格が丸くなったような気がしていたが、そういえば宗太は自分と対峙しているときの実咲しか見ていない。コマーシャルに出ている実咲は、やたらとかっこよくクールに決めていたが、コマーシャルの中だけでかと思っていた。確かに、無口なキャラだったら馬鹿でも人見知りでもごまかせる。
「これまではそれこそ雑誌の仕事しかなかったが、CMが始まって注目され出した。当然だと思う。むしろ遅かったくらいだ。あいつはもっと早くに認められてもよかった」
あいつはくるよ、と日野明輝が静かに言った。なにがですか、と聞いたら睨まれた。最近、甘ったるくて宗太の言うことすることならなんだって許す、実咲とばっかりいたからだろうか。厳しく接されることが新鮮だ。
「俺は、独立して事務所を立ち上げようと思っている」
なんだか大変なことを聞いた気がして、目を見開いた。だが、独立と聞いても、それがすごいことなのか、そうでもないことなのかよく分からない。普通の会社員が、勤めていたところをやめて自分で新しい会社を興すようなものだろうか。
さらりと言うものだから、芸能界とはそういうものなのかなと自分なりに解決する。まあ、あっきーが独立するというのだったら、するんだろう。大変かどうかは知らないが、これだけの顔とオーラがあればやっていける気がする。宗太が完全に固まったのは次の言葉だった。
「独立したら、あいつも一緒に連れて行きたい。あいつは売れる。CMタレントだけじゃ収まらない。いい役者になるよ。一緒にいて分からないか。いるだけで絵になる男なんて、芸能界でもなかなかいない。それに頭がからっぽなぶん、吸収する力がすごい。あいつがやる気になれば確実に売れるし、実力だってあとからついてくる。あいつはスターの資質を生まれながら持ってるんだよ」
すごい。と宗太は思った。
実咲が、あのあっきーに認められている。宗太でも知っているようなこの男に、ここまで言ってもらえるなんて、ファン冥利につきるじゃないか。実咲自身は、日野明輝かこんなに信頼を得ていることを知っているのだろうか。
これまで、実咲自身の口からあっきーのことについてあまり出てこなかった分、こうして実咲への評価を聞けて素直に嬉しいと思う。さっきまでの、日野明輝が目の前に現れたことの驚きが薄らいでいる。
「で、だ」
実咲に対して久しぶりに優しい気分になっていた宗太の気持ちを知ってか知らずか、日野明輝が話を切り替えるよう両手をパンと合わせた。そして、分厚い封筒を高そうな鞄から取り出し、すっと宗太の前に置く。
「とりあえず三百万ある」
は? と眉を寄せた宗太に、日野明輝はずいっと体を乗り出してきた。その仕草とギラリと光った瞳に、少しだけ実咲と似たものを感じる。手段を選ばない、肉食獣の目だ。
「ミキの留守を狙う真似をしたのは悪かった。だけど、あいつはああ見えて頑固で馬鹿で頭が悪くて、こっちの言うことを全く聞きやしないからな。あんたは、俺の予想以上に冴えないが、見たところ馬鹿じゃない。俺の言いたいことが分かるだろう? 金は好きに使って構わない。足りないようなら用意する」
「……俺に出て行けってことですか」
乾いた声が出た。けれど、妙に頭は冷静だった。
いつまでも、ぬるま湯の中にいるような暮らしなんて続けていられない。くるときがきた。そう思った。
「そうだ。これから本格的に売り出すとしたら、あいつにとってホモだって噂はマイナスでしかない」
「俺はホモじゃない」
「んなこたどうでもいいわ。この状況を見てみろ。明らかに愛人を囲ってる状態じゃねえか。本人がなんと言おうが、外からは百パーセント、ホモに見られる。見られてナンボ、プライベートだって切り売りしなきゃならない商売なんだ。本人がいくら違うって言っても世間はそう見てはくれないんだよ」
言い返すと、十倍くらいの量で跳ね返ってくる。怖い。だが、言われてみると納得できることばかりだ。マシンガンのように言葉を繰り出してくる日野明輝が、ふう、と息を吐いた。
「だいたい分かんねえんだよな、どうして、あれだけ恨んでた男の世話をしてんのが」
恨んでいた、というキーワードが耳に残る。
俯きながら日野明輝の話を聞いていた宗太だったが、はっとして顔をあげた。
「恨んでたって、どういうことですか」
本当に意味が分からなかった。そのはずなのに、知らず声が震えた。
「知らねえの?」
日野明輝が片方の眉を器用にあげて、意地悪くにやりと笑った。さすがに、アイドルは自分の顔が人からどう見られるか分かっている。
「『宗ちゃん』に、自分の人生はめちゃくちゃにされたって言ってたぜ」
宗太が目を見開くと、一瞬、日野明輝は申し訳なさそうに目を細めた。もしかしたら、この人は演技があまり得意じゃないのかもしれない。意地の悪い顔はできるかもしれないが、根はきっと悪い人じゃない。宗太が傷つくことに関してはそれなりに罪悪感を持っているようだった。
だからこそ、今の言葉が嘘だとは思えない。
場の空気を変えるように、日野明輝が明るい声を出す。本当に、くるくると表情がよく変わる。
「悪い話じゃないだろう? このままじゃ、お前なにされるか分かんねえぞ。知ってると思うが、あいつは馬鹿なうえに強引だし、人の話を聞かないから話し合いなんて無駄だ。思い込んだら他がなに言っても無駄だし、なにより執念深い。逃げろ。逃げるように出て行け」
確かに日野明輝の言葉は宗太に届いているはずなのに、心は氷のように冷たい。
なにかがぱちんと弾けている。これは、いつかどこかで感じた。おそらく、母に出て行かれたときに知った気持ちに似ている。孤独への寂しさがじんわりと広がっていった。
懐かしくて悲しい。宗太がショックを受けたのを見抜いたように、ここぞとばかりに日野明輝がたたみかける。
「許さない、って、言ってたぜ。なに、お前、ここで償いでもしてんの? それにしてもずいぶんくつろいでたけど。ヒモか? 男に飼われている気分はどうだ? 酷い男だよな。いいのは顔だけだ。あいつはお前のプライドを踏みにじりたかったのかもな」
そんなもの、もともとお前にはないようだけど。
そう言われたとき、うっすらと笑みが浮かんだ。そうだ。自分にはプライドなんてない。慣れないことをするものだから、涙を堪えるだけのことが、こんなにも難しい。
「分かりました」
答えが出るのは早かった。どちらかと言うと、日野明輝のほうが拍子抜けしたように呆けている。
「……出てってくれるのか」
「はい。すぐにでも」
淡々と宗太が答えると、ばつが悪そうに日野明輝が頭をかいた。そしてメモ帳を取り出し、なにやら書きだす。
「んじゃ、よろしく。困ったことがあったら俺に直接言ってくれ」
渡された数字をぼんやりと眺めた。携帯電話の番号だ。本人に繋がるんだろうか。この人は、宗太がこの番号を悪用するかもとは考えたりしないのだろうか。
帰ろうと立ち上がる日野明輝に向かって、無意識のうちにぽつりと呟いた。
「意外に、くだけた話し方するんですね」
ずっとテレビの向こうにいる、どこか違う世界の人間だった日野明輝が、怪訝そうに宗太を見下ろす。
「は?」
「俺の知ってるあっきーじゃない」
そう言うと、はは、とおかしそうに日野明輝が笑った。
「さてはお前、昔の俺しか知らねえな」
「最近、ドラマに出ていたのは知ってます。弁当、買いました。コンビニで」
「まじか。え、なに、お前俺のファン?」
「違いますけど」
否定すると、日野明輝は嫌な顔一つせず、逆に安心したように息をついた。
「ならよかった」
あっさり言うと、ふっと口角をあげた。
「もうあっきーはいないんだよ。アイドルってのは、限られた時代に生きているからいいんだ。それにテレビの前じゃ、さすがにこんな言い方はしないさ」
男っぽくて凛々しい顔立ちの中にも、笑えば昔の面影がかすかに見える。芸能界に揉まれると、成長のスピードもずっと早くなるのかもしれない。同じ二十代であるはずなのに、日野明輝と自分では比較にもならなかった。
「こっちは夢を売ってるんだ。それを裏切るようなことはしない」
「俺は裏切られた」
「お前は俺のファンじゃねえんだろ」
この人が、実咲の好きな男か。
かなうわけない。宗太が日野明輝のことを知っているのは実咲がいたからだ。実咲の隣で、日野明輝の話をずっと聞いていた。
東京で再会してからも、ずっと優しかった実咲が顔色を変えたのは、宗太に日野明輝には会えないと牽制したときだけだ。実咲が日野明輝をどれだけ好きか、他の誰でもない宗太自身が一番知っている。
実咲にとって、彼は特別なのだ。
日野明輝を見送って、すぐに家を出る準備をした。逃げるように家を出ろとは日野明輝が言っていた言葉だが、確かにそれに近い。時間が進むうちに焦りが増した。これからの心配なんて考える余裕もなかった。ほどこしとも思われる百万の束も、遠慮せずに掴みとった。そもそも、宗太にはプライドがない。
人生をめちゃくちゃにしたなんて、そんなことを思われていたなんて知らなかった。恨まれているなんて知らなかった。でも、確かに昔、宗太は実咲に嫌いだと言われた。嘘だと言っていたし、自分でもそんなはずはないと考えていた。けど、真実を知っているのは実咲だけだ。実咲が本当のことを言っていなんて、ちっとも信用できない。
スキンシップの過剰を、宗太は単純に好意からくるものだと思っていた。違ったのか。男のプライドを踏むにじるために、実咲が周到に用意した罠だったのか。
触れ合いに慣れさせときながら、傍にいないと駄目にしておきながら、もしもゴミのように捨てられたら、きっと自分は壊れる。
もともと自分の荷物は少なかったので、すぐにまとめることができた。ボストンバッグを一つ抱え、少し考え、手紙を書いた。
外に出て下からマンションを見上げ、昨日作ったおでんを、実咲がおいしく食べてくれることを願った。