1.
たった一年の差を、これほどもどかしく思ったことはない。
整いすぎて、どこか作り物めいている顔に苛立ちを浮かべ、岡崎(おかざき)千紘(ちひろ)は黒板の上に掛けられている時計を睨みつけた。
幼いころから容姿については褒めそやされてきた千紘ではあるが、中身はいたって普通の少年なため、普段は周囲に溶け込みそれほど浮いてしまうことはない。
ただ顔から表情を消すとあっという間に氷のように凍てついて、自分でも気付かない間に誰も近寄れない雰囲気を作ってしまう。
今も、不機嫌さを露わにして頬杖をつく千紘の不穏な気配に、クラスの女子がこっそりと様子を窺っている。
自分からそんなオーラが出ていることも知らず、千紘はただ苛々と時間が過ぎるのを待っていた。
授業ならまだあきらめもつく。学生の本業だ。義務だ。こなさなくてはならない仕事だ。しかし。
(自習ってなんだよ)
はあ、と大きく息を吐き、こらえ切れず机に突っ伏した。
それもこれも、メールの受信に気付いてしまったせいだ。机の上に放り出してある携帯電話を手に取り画面を開く。自習なので誰も見咎めるものはいない。それが災いした。恨めしくメールの文字を追いながら何度目かのため息をつく。
『和葉(かずは)と一緒にサボリ中。ってことで、昼は屋上! カレーパンとクリームパンとコロッケパンを二つずつ買っといて。牛乳もよろしく』
送り主は深山(みやま)明(あきら)。同じ学校に通うひとつ年上の千紘の従兄だ。
高校生男子のものとは思えない絵文字満載のメールで、文の最後にはしっかりとハートマークを三つも並べて、そんなことが書かれている。どうして屋上にいるのかとメールを送ってみたのだが、返信はない。なかなか動かない時計の針が憎らしい。あと十分我慢すれば昼休みだと言い聞かせても、その十分が長かった。
ただでさえ、常日頃からちらちらと脳内に現れて、千紘を混乱させる明の幼馴染の顔が、メールが届いてからずっと頭から離れない。
いつもつまらなそうに遠くを見ている和葉は、明と同じクラスでとても仲がいい。和葉のことを思うと、千紘はどうしてだか平静じゃいられなくなる。
なんでさぼったのか。なんで屋上にいるのか。――二人でなにをしているのか。
いろんなことが頭の中をぐるぐると回っている。保健室に行くふりをして自分も屋上に向かおうかと何度か考えたが、誘われてもいないのにのこのこ現れるのは気がひけたし、今以上に図々しく関わっていくと、今度こそ和葉に鬱陶しがられるかもと思うと怖かった。
鬱陶しく思ってもらえるほど、和葉が自分に興味を持っているとも思えないが、無駄に嫌われたくはない。
長すぎる十分間もようやく終わり、チャイムが鳴ると同時に千紘は教室を飛び出した。いつにない千紘の焦った様子に、クラスメイトたちの驚いた表情が視界の端に映るが気にはならない。
こんなふうに周りが見えなくなってしまうのは和葉のことを考えているときだけだ。そのまま屋上に直行したかったが、昔から明には逆らえない千紘は、言いつけどおりに売店でパンを買い、ほとんど駆け足になりながら屋上へ向かった。
千紘がこの高校に入学して、五月も半ばが過ぎようとしている。山の上のほうに学校が位置しているので、校舎をつなぐ二階の渡り廊下からは街が見渡せた。なにもない街だ。背の高いビルに景色が邪魔されることもない。天気がいいと遠くに海が見えるのだが、ここ数日は曇りの日が続いており、全体的に薄暗かった。
この地方は、春の始まりも終わりも少し早い。一年生の千紘が詰襟の制服を着ることができたのはほんの一瞬で、肌になじむ前に衣替えになってしまった。それでも天候のせいかカッターシャツ一枚では肌寒く、千紘は下に長袖のTシャツを着こんでいる。
入学して一ヵ月と少しだが、確実に季節は移り変わっていることを感じることができる。
一ヵ月と、少し。
それだけしか経っていない。ということは、中原和葉と出会ってからの時間もたったそれだけだということだ。
千紘は昼休みになると教室を出て行く。クラスに慣れたとはいえ、親睦を深めるためにもクラスメイトらと昼食を囲めばいいのだろうが、千紘が選んだのはひとつ年上の従兄と、そしてその幼馴染だった。
階段を上がる途中でバイブ機能にしていた携帯電話が震えた。
『まだー?』
開口一番、甘えるように急かす明の声に苦笑しながら、「もうすぐ」と答えた。たった一歳しか違わないのに、千紘と明の力関係は歴然としている。ずっとそうだった。未来永劫、自分が明に勝てることはない。
そのとき、明よりも離れた場所から『ゆっくりでいいから』と、声が聞こえた。
思わず息を止めた理由を、千紘はまだ判断できない。答えはもうそこにある気がしているのに、決めつけてしまうのは危険に思えた。もう一度声が聞こえないかと、静かに、じっと耳をすます。だが空気を読めない明が『じゃあ待ってるね』と言って、早々に電話を切ってしまい、またしても答えは闇に消えた。
残念なのに、ほっとした。自分は答えを知りたいのか、知りたくないのか。知りたいから、耳をすますのだろうし、知りたくないから、安堵の息をつくのだろう。
携帯電話をポケットにしまい、足を動かす速度を上げる。
答えなんかどうでもいい。
それよりも、早く、早く顔が見たかった。
千紘が生まれ育ったのは、海に近いことだけが自慢の、他にはなにもないただの田舎だ。静かで、のどかで、少し寂しい。
その寂しさの理由を幼いときの千紘は掴めなかったが、子どもの数が少ないことも原因のひとつなんじゃないかと今は思う。
成人すればほとんどの人が町を出ていく。毎年、季節がめぐるたびに知っている人が、少しずついなくなる。そして、いつかは自分も出ていかなくてはいけないことが分かっている。そんなところだ。
町には高校がなく、そのため、地元の中学生はそれぞれ成績に見合った高校を近場のところから探す。たいていは自宅から電車やバスで通えるような場所を選ぶのだが、ちょっとばかり勉強ができた千紘は親や教師のすすめもあり、少しというには若干距離のありすぎる一応の進学校に進むことになった。
高校近くに親戚が経営しているアパートが建っていたこともあり、合格かどうかも決まっていないうちから千紘の身の置き方は決まっていった。「あの」明が受かった高校であるのだから、お前が落ちるはずがない、というのが親戚一同の言い分である。いらないプレッシャーだったが、一人暮らしへの期待や憧れは不安よりも勝っていた。「あの」明と同じ高校に通えるということも大きかった。
千紘の世話役として任命された明だったが、千紘は小さいころから自分の面倒をよく見てくれた明のことが、なんだかんだ言いつつも好きだった。この従兄が、千紘の性志向を悩ませる最初の原因ともなる。
明はひとつ上であるものの、千紘よりも背が低くて幼い顔立ちをしている。黒目がちの瞳はまるでリスのようだ。けれど新しい環境で不安になっていた千紘を、広い学校の中から探し出し笑顔で声をかけてくれた明は、千紘にとってやはり頼もしい兄貴分だった。
その横に、和葉がいた。
会う前から、千紘は和葉に興味があった。二人が幼馴染だったために、昔から明の話にはたびたび和葉が絡んでいたからだ。
明はお世辞にも「勉強ができる」とは言えない。テストの成績は散々で、勉強に関しては明の親もすでに諦めていた。明の明るくて人懐っこい性格があれば、社会の荒波には立ち向かえそうだったし、親戚一同、誰も明に勉強の出来を求めていなかった。
そんな明だったが、中学三年生になったばかりのある日、突然塾に行きたいと言い出した。高校に行くためだ。そこそこのレベルとはいえ、進学校である。明の成績ではとても無理だと思われたし、教師や親が別のところにすればと諭したくなるのも無理はなかった。けれど、明は志望校を変えなかった。勉強して、勉強して、勉強して、奇跡を起こした。
そこまで高校にこだわるようなタイプには見えなかったので、不思議に思ってどうしてここの学校でなくちゃならなかったのかを聞いたことがある。
すると、明はけろりとした顔で
「だって和葉がここにするって言うんだもん」
と言ったのだ。
まるで、そうすることが当然であるような、特別なことでもなんでもないような言い方だった。
明は、人見知りをしない。誰とでも、それこそその日初めて言葉を交わした人でも簡単に仲良くなれる。誰とでも仲良くする代わりに、特別な誰かと仲良くしたりはしない。太陽のような明を中心にして、自然に人は集まる。明は、みんなのものだった。
そう思っていたのに、いつの間にか、明には『親友』と呼べる友人ができていたらしい。
顔も知らない、明の話だけに出てくる和葉であったが、だからこそどんな人間なのか気になった。顔を知らないはずなのに、明の隣でつまらなそうにしている男を見た瞬間に、この人が「和葉」だ、と分かった。
和葉は小柄な明よりもさらに背が低かった。甘めの顔で人懐っこくに笑う明の隣に立つ和葉は、警戒する猫のように千紘を見て目を細めていた。
無造作にまとめられた明るい色の髪や、おしゃれ程度に制服を気崩しポケットに手を突っ込んでいる姿が、生意気な中学生のようだった。
年上の威圧感などは全くなく、どちらかといえば「かわいい」と形容される容姿だったが、仮にも初対面の先輩に対する感想としては間違っていると思ったので口には出さなかった。
『岡崎千紘。従弟なんだ』
『ふうん』
さっくりと千紘を紹介する明に、和葉は器用に片方の眉をあげた。
『ちーちゃん、この人は中原和葉。俺のオトモダチ。一番仲良し。な!』
ちーちゃん、とは千紘のことだ。恥ずかしいと何度言っても明はその呼び方をやめないので、とっくの昔に諦めている。
なにが面白いのか、明はケタケタと笑って、じゃれるように和葉にまとわりついていた。
『なんだよ、やめろ。おい、気持ちわりいだろ』
和葉は腕を組もうとする明を避けて心底嫌そうな顔をしていたが、遊んでいるようにしか見えなかった。
種類の違う童顔二人が並ぶ姿は、なにかのマスコットのようにぴったりと当てはまり、思わず笑いそうになった。たぶん、あのままだったら笑っていたと思う。笑わなかったのは、突然こちらに目を向けた和葉が、すっと千紘を指差して、
『女みてーな顔。制服間違えたんじゃね?』
と、のたまったからだ。
女顔であることは千紘のコンプレックスだった。バスケットをやっていたから筋肉がないわけじゃないのに、服を着ると痩せて見える体型も嫌だったし、なかなか日に焼けない肌も気に食わなかった。
少しでも男っぽく見せようと一度坊主にしたことがあるのだが、友人からも両親からも似合わないと言われ、とくに女子からのブーイングはひどかったため、それ以来極端に短い髪型にはしないようにしている。
顔が整っているといえば聞こえはいいが、その顔のおかげで得したことはこれまで一度もない。一度もだ。
出会って数分も経たないうちに、気にしている部分をぐっさりと指摘され、普段は温厚な千紘もさすがにむっとした。
この人、苦手だ。
そう思った直後だった。
それまで仏頂面だった和葉が、突然くしゃりと顔を崩した。
『怒った』
得意げに笑う顔を、千紘はぽかんと口を開けて見ていた。先ほどまでの表情とあまりにも印象が違うので驚いた。ちゃんと笑えるのか、と、馬鹿みたいなことを思った。
人を怒らせて喜ぶなんて、性格悪いし、意地悪だと思う。それでも、千紘は和葉から目が離せなかった。
『駄目だよ、そんなにはっきり言っちゃ。ちーちゃん気にしてるんだから』
横で明が和葉を窘めてくれたものの、げらげらと腹を抱えて笑っているのでフォローになっていない。
『でもマシになったほうだよ。小学生のときなんか変態に狙われたりしてさあ。女の子に間違われて泣くなんてしょっちゅうだし。オカマってからかわれて年上の子とも大喧嘩してたし。男に犯されそうになったこともあったよね』
嫌なことを思い出させる明に文句を言う余裕もなかった。和葉が触れるくらいまでに近付いて、千紘の顔を覗き込んできたからだ。瞳の色は、髪と同じ、薄い茶色だった。
『まあ、確かに綺麗な顔してるよな』
まじまじと見つめられ、そう言われた。うわっと、汗をかいた手のひらを気付かれないように握りしめた。
よろしく、と首を傾げて小さく笑う和葉から、目が逸らせなかった。