2.
「こんな日になんで屋上なの?」
ドアを開け、飛び込んできたのは憂鬱な曇り空だ。それを指さしながら、地べたに胡坐をかいている二人に近寄る。生温い風が、千紘の細く柔らかな黒髪を撫ぜていく。
指に掛けるようにして持っていたビニール袋はすぐに明によって奪われた。明は目当てのパンを探しながら、「そんなの和葉に聞いてよ」とおざなりな答えをよこす。
和葉のほうへと顔を向けると、バツが悪そうに綺麗な形の眉を顰めた。千紘と和葉の間には、いつも明が挟まっているので、二人で話すことはあまりない。昼休みはだいたい一緒にいるはずなのに、向かい合うことがひどく新鮮に思える。
「他にさぼれるような場所が思いつかなかったんだ。つーか、ここでメシ食うつったのは明だろ」
ふてくされた言い方が幼くて、口がにやけるのを抑えるのに苦労する。
「いいじゃん屋上。誰もいないしさあ、穴場じゃん。俺は気にいったけどな。はい、クリームパンとカレーパン。コロッケパンもあるよ」
「いらない」
「そんなこと言わずに。はい、牛乳も。これ飲んで大きくなりな」
「うるせえよ」
相変わらず小さな漫才を続けている二人を横目に、千紘は空いていたスペースに腰を下ろし、窺うように和葉の顔を覗き込んだ。
「さぼったの?」
先輩の和葉に、千紘は敬語を使わない。使わなくていいと言ったのは和葉だ。それなのに、和葉は「生意気だ」とでも言いたげな目で睨んできた。
明のようにくるくると表情が変わるわけではないけれど、和葉も気持ちが顔によく出るほうだと思う。特に拗ねたり不機嫌になっていたりするのは分かりやすく、ひねくれたことを言うわりに素直だ。
だからこそ、なんだか和葉の様子がいつもと違うように思える。
表情や仕草はいつもと変わらないのに、和葉をとりまく空気がどことなく淀んでいる。
生意気そうな釣り目と、制服の着こなし方から、やんちゃなイメージを与える和葉であるものの、実際のところ、千紘の見る限りでは生活態度は至極真面目だ。
明の話によれば中学時代はサボリ魔だったらしいが、あるときから急に心を入れ替えたとのことだ。どうして心を入れ替えたのかまでは教えてくれなかったが、和葉のほうも明と同じく、勉強がそう得意ではないようなので、高校受験とまた関係があるのだろうと千紘は思っている。
心を入れ替え、真面目に学校生活を送っていた和葉が、なぜまたさぼることになったのかが不思議だった。
考えが顔に出ていたのだろう千紘に、和葉がむくれた表情で目を反らし、口をもごもご動かした。
「……四限だけ」
「俺もー。和葉が教室にいなかったからどうしたのかと思って抜けてきちゃった。授業さぼったなんて久しぶりだよ」
隣から明が口を出してにぎやかす。楽しそうに満面の笑みを浮かべている明だったが、それが妙に面白くない。なんだか二人の世界だ。
つい、「誘ってくれればよかったのに」と、馬鹿みたいなことを呟いてしまう。思った通り、和葉が呆れた視線をよこしてきた。
「そんなにいいもんじゃなかったぞ」
寒いし、と付け加える見当違いな和葉に、声を出して笑った。
別に、たださぼりたかったわけじゃない。そうじゃなくて――
「ちーちゃんは和葉と一緒にいたかっただけだよねー」
突然の、間延びした明の声にぎょっとする。
心を読まれたのかと思った。
怪訝そうに首を傾げる和葉には笑ってごまかしてこっそり明を窺うが、明は顔こそ千紘のほうに向けているものの、視線は千紘の手、の中にあるパンにそそがれていた。
「なに、そのパン、うまそう。売店にあったっけ」
「朝、コンビニで買ってきた」
「新商品?」
「そうだけど」
明の顔に、一年生の女子の間でもかわいいと噂されるとびきりの笑顔が浮かぶ。しかし千紘には、これが獲物を狙う肉食獣の顔にしか見えない。明は狙った獲物は逃がさないし、きっと狙ったものが逃げていく経験もしたことがない。
「コロッケと変えてよ」
「やだ」
「えー。けち! いいじゃん、パンくらい。コロッケもおいしいって」
「じゃあ明君がそっち食べればいいだろ」
「今はちーちゃんが持ってるパンが食べたいんだよー」
勝ち目のない攻防戦を繰り広げながら、ぼんやりとパックの牛乳に口をつけている、というよりもストローを加えているだけの和葉に、千紘の神経は傾けられている。
やっぱり様子がおかしい。いつもだったら渋々ながらも呆れたつっこみと苦笑いが入れてくれるはずなのに。
落ち込んでいるのかもしれない、と思った。
落ち込んでいるから、さぼって屋上にきた。慰めるために、明もついてきた。じゃあ、自分はここにいないほうがよかったんじゃないか、とふと不安になる。
和葉が必要としているのは、千紘ではなく明のほうであることなど、分かり切っていたからだ。
暗い感情に落ち込みそうになったとき、小さく和葉が呟いた。
「…………親父が、結婚した」
騒いでいた二人にまぎれるような、独り言ともとれる感情のこもらない声で、それはもしかすると聞き逃してしまうかもしれないくらいのささやかなものだったが、和葉の様子が気になっていた千紘の耳には充分届いた。
そしてそれは明も同じだったらしい。ぽつりと落とした和葉の言葉を、いち早く拾い上げたのは千紘ではなく明だった。手にはしっかり千紘から奪ったパンが握られている。
「まじで?」
遠慮なく身を乗り出す明に、和葉がふっと口角をあげた。そして、手を空にした千紘に気付いたのか、和葉の手にあった口をつけていないカレーパンを投げてくれる。それは綺麗に千紘の手中に収まった。
「いつ?」
「先週籍入れたって。今日から一緒に住むんだってさ」
「他人事みたいに言うねー。あ、だから最近落ち込んでたのか」
「落ち込んでねえよ」
「相手は?」
「……普通の人。親父と同い年ってだけ。それだけ」
「へー。なに、性格悪いの」
「なんで」
「だって嫌そうだから」
ここぞとばかりに、明がかたっぱしから疑問をぶつけている。最近落ち込んでいた、と明は言っていた。和葉は否定したが、明が言うのだから間違いないだろう。千紘は気付けなかった。もしかしたら、明は和葉が話しだすのをずっと待っていたのだろうか。
ちり、と胸のあたりが痛む。
そんな千紘のことなど知らず、和葉は明の勢いにさもおかしそうに笑った。
「そりゃ嫌だろ。よく知らないやつが家にいるんだから」
「じゃあ和葉は結婚には反対なんだ」
「反対したところで、あの親父が言うこと聞くかよ」
「そんなことない、って言えないのがつらいとこかなー。それに早くない? だってお前んとこ……」
そこで初めて明が言葉を濁す。台詞の先は、千紘にも読めた。千紘が聞いていた話では、和葉の母親は二年前に亡くなっている。二年。再婚するにはまだ早い。少なくとも、和葉の表情を見る限りは。
「……別に、いつまでも独身でいろとは言わないけど。……なんか、腹立つだろ」
いつも不機嫌そうに細められている猫のような目が、寂しげに伏せられる。睫毛が影を落とすのを、千紘はじっと見ていた。
「ま、授業も受ける気なくすよなあ。家の中がごたごたしてちゃなあ」
「別に……ごたごたしてたわけじゃない。どっちかというとスムーズだった。結婚するから、って言われて、俺がそうなんだって言って、終わり」
さっぱりとした口調が逆に悲しい。割り切れているなら、こんなところで話題に出したりしないだろう。それでも和葉は軽く肩をすくめてみせる。
「別に、あいつの結婚はいい。もう決まったことだし、あんまり関わりにならないようにするから、いいんだ。どうでもいい。それよりもさ」
納得してないような表情だったが、明は「うん」と頷き先を促した。
「……母親になる人なんだけど、その人、子どもがいてさ」
そう発した途端、和葉の眉間にしわが寄る。
「もう二十四歳なんだけど、一緒に暮らすことになってて……」
「へえ。じゃあ、和葉のお兄さんになるんだ」
何気ない明の相槌に、ぴく、と和葉の口がひきつり、そして渋々頷いた。その顔に「不満だ」という気持ちがはっきりと表れている。
「まあ、それで、一応は家族になるわけだからって、金曜に、食事会をしたんだけどさ」
だんだんと和葉の声が低くなる。
「そいつ、むかつくんだ」
怒りのために発されたはずの声は、空気の読めない明でも眉をひそめるような気落ちしたものだった。
「……むかつく」
和葉の沈んだ様子に、明が心配そうに顔を覗き込む。
「その兄貴になんか言われたのか? 意地悪だったりすんの?」
「……別に、そういうわけじゃないんだけど」
「なんとなく嫌いなの?」
なんとなく。その言葉に和葉は戸惑ったようだが、しばらく間をとってゆっくりと頷いた。
「キライだ」
一語一語、自分に言い聞かせるようにはっきりと口に出す。思わず千紘は明と目を合わせた。明も同じように目を丸くしている。自分の眉が徐々に下がってくるのを感じた。
和葉が、誰かを「嫌い」なんて言うところを聞いたことがない。好き嫌いがないわけではなくて、誰かに興味を抱くことをあまりしないのだと思う。無関心。だから、昼休みにこうして千紘が昼食の場にいることも何も言わないのだ。
幼馴染の明だけが特別で、その恩恵を受けて、明は和葉と話ができている。
嫌い、なんて言うなんてよほどだと思った。二ヵ月しかつきあいのない千紘でもそう思ったのだから、明の驚きはもっとだったらしい。
「……本当に、落ち込んでんだねえ」
そう呟いた声は、明のほうが沈んでいるようにも聞こえた。そして明は千紘から奪ったパンを和葉の前に差し出す。食べかけの部分から薄茶色のクリームがのぞいていた。
「…………なんだよ」
「食いなよ。キャラメルクリームだったよ。なかなかうまかったぜ」
童顔のくせに口調だけが男前で、つまりは生意気にしか見えない明に、和葉が苦笑する。明るいそれに、ほっと息をつく。
「偉そうに。岡崎のだろ」
「あ、いいよ食べて」
慌ててそう付け加えた。キャラメルのパンなんかよりも、今は和葉にもらったカレーパンが嬉しい。
「ほら、ちーちゃんもそう言ってるしさ。食べな食べな」
いきなり甲斐甲斐しくなった明にうざったそうに眉を寄せてはいるが、和葉は本気で嫌がっていない。いつだって、和葉は明の行為を迷惑そうな顔をしながら受け入れるのだ。
そのまま和葉の話は途切れ、千紘と明がまたくだらない争いを始めたところで予鈴が鳴った。
「授業、めんどくせえな」
「今日はこのままさぼっとく?」
「さぼるのもめんどくせえんだよな」
和葉と明の会話を聞いて、はは、と笑う声がむなしい。
悔しいけれど、この二人の仲には絶対にかなわない。もしも自分があと一年早く生まれていたとしてもこうはいかなかっただろう。千紘では、明の代わりになんかなれない。
結局は授業に出ることで落ち着き、明を先頭に怠惰な動きでドアへと向かう。生温い風に吹かれ、和葉の白い首筋が目に入った。
細い、と思う。和葉は千紘のことを女みたいだ、と言ったが、そんな千紘よりも和葉のほうがずっと細い。明の後に続く和葉の背中を思わず呼び止めた。
「和葉先輩」
千紘は、明のことは「明君」と呼んでいる。他に親しくしている先輩はいないから、千紘が「先輩」と呼ぶのは和葉だけだ。そして、ときおり、思いついたように「和葉先輩」と呼ぶ。「中原先輩」ではなく、「和葉先輩」となってしまうのは、明の呼び方が移ったからだ、ということにしている。
呼び方なんて、和葉はいちいち気にしていないだろうけれど、千紘は「和葉」という名前を言葉にするたびに、少しだけ緊張する。
振り返った和葉が、不思議そうに瞬きをした。一度、頭を戻し、明のほうを確認していたが、どうやら明は先に行ってしまっていたようだった。いきなり後輩と二人きりにされて困っているのが実に分かりやすくて苦笑する。先ほどの話を千紘も聞いていたし、居心地が悪いのだろう。
(でも)
きっと自分は明のようにはなれない。けれど、特別にはなりたい。せめて、昼食の場に明の姿がなくて、和葉が心配してくれるとか、そのくらいまでの関係にはなりたい。二人でさぼっている中に飛び込みで参加しても、不自然にならない程度、とまでいくと贅沢か。それにしたって、ささやかすぎる願いじゃないかと、自分を励ます。じっと見つめる千紘に、和葉がゆっくりと体の向きを変えた。
「……困ったこととかあったらさ。……なんでも言ってよ」
言ってしまってから、後悔した。後悔したところでもう遅いので、開き直った。
「は?」
きょとんとしている和葉に、無理やり言葉を続ける。
「先輩んとこ、今、大変そうだからさ」
明の従弟でしかない自分にそんなことを言われて戸惑っているのだろう。ポケットに手を突っ込んだ、年齢よりも幼く見える姿に、目を細める。沈黙の後、試すような声で「なんでも?」と和葉が呟いた。
ぱっと顔をあげて頷く自分を犬みたいだと思う。教室の隅っこで、頬杖をついていることの多い自分を知るクラスメイトにこんな姿を見られたら笑われそうだ。そんな千紘に、和葉は意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前に言ったら、なんとかなんのか」
突き放した言い方だった。しかし声が明らかに笑っているので、からかわれているのは充分に伝わる。本気にとってくれない和葉に落ち込み、カクン、と首を落とした。でも、負けていられない。ここが踏ん張りどころだろう。今、自分の本気を分かってもらわなければ、いつまでたっても明の従弟のままだ。
思いきって顔を上げた。和葉の顔を見据え、決心がぐらつかないうちに「なんとかする」と言い切る。
「はあ?」
意地悪な顔が崩れ、呆れた声を出す和葉を、今度はめげずに見つめ続けた。
「なんとかする。頑張るよ」
だからなんでも言って。
真剣な顔でそう告げるが、和葉は得体のしれないものを見るように口を開けて固まっていた。
「先輩?」
千紘の呼びかけにはっと我に返った和葉は、目をうろうろとさまよわせる。なにかを言いかけた口は結局閉じられ、逃げるように背を向けられた。
「あ、先輩」
「うるせえよ」
「……ひどい」
「ひどくない」
耳が赤い、と気付いた直後にドアの向こうに行ってしまったので、もしかしたらそれは千紘の淡い期待が見せた幻だったのかもしれない。でも、照れていた。確実に、和葉は照れていた。
外が曇っているのと電気が点いていないとので、階段は昼にしては暗すぎる。足早に下りる和葉の後を千紘は慌てて追いかけた。廊下には教室に向かっている生徒がまばらに散らばっている。二年の和葉はすぐに教室に戻れるのだが、校舎の違う千紘は急いで帰る必要があった。
「お前、早くしないと遅れるぞ」
「大丈夫だよ」
「……ごめんな。今日は、あんなとこで飯食うことになって」
申し訳なさそうな口調で言われ、心の底から驚いた。どこで昼食を食べようが和葉と明の自由で、千紘はそれに勝手にくっついているだけだ。謝られるとは思わず、大きく首を横に振る。
「全然。それに呼んでくれてよかったよ。俺だけ仲間はずれは寂しいじゃないか」
「なんだそれ。子どもか」
眉尻を下げる笑顔に、これは本当にまずいことになりそうだ、と、和葉に出会ってから何度目になるか分からない警鐘が鳴るが、聞こえなかったことにした。大丈夫。ただ、自分は和葉と仲良くなりたいだけだ。
これがきっかけになってくれるとは思わないけれど、いつか、明に打ち明ける悩みの二十分の一くらいは、自分に頼ってくれるようになったらいい。ほんの些細なことでいい。
淡い期待を抱きながら、先ほど聞いた和葉の悩みを反芻する。
(……お義兄さんか)
一日食事会をしただけで、和葉から「嫌い」という評価を下された男。お気の毒にと思いながらも、嫌な予感は拭えなかった。