4.
もともと千紘の部屋には荷物が少なく、壁に穴を開けるなとも言われているのでポスターの類も一切貼っていない。
家具といえば、ベッドと、冬にはこたつに変わる座卓と、小説と漫画と参考書がまとめていれてある本棚くらいだ。
普段ならばすっきりと片付けられている部屋は、和葉の来訪により床に漫画がどさりと積まれた状態になっている。
アパートに帰り、まず夕飯をどうするか聞くと、「食べたくない」と言われた。明の言っていた「なにかあるとすぐに食べられなくなる」という言葉を実感したが、牛乳しか飲んでいないのを知っていたので、無理やり夕飯をふるまった。ふるまったといっても昨晩の残りのカレーだったのだが、自分を慕う後輩から出されたものに口をつけないわけにはいかないと思ったのか、ぐちぐち言いながらも全部食べてくれた。食べ終わった空の皿を、なぜか和葉はぼんやりと見ていた。
シャワーを貸し、着替えも千紘のものを用意した。Tシャツとスウェットのズボンであるが、自分が袖を通したことのある服を和葉が着ていると思うと妙に恥ずかしい。歯ブラシも客用のを出すと、いたれりつくせりだな、と言って和葉は笑った。
これといった特徴のない十畳のワンルームなのだが、それがよかったのか和葉はすっかりくつろいだ様子で千紘の漫画を読みふけっている。
思い立って、今日購入したばかりのCDをかけてみた。二千円くらいで買った中古のCDラジカセは、床に直に置いている。千紘がイメージしていたよりもずっとゆっくりしたテンポで始まったメロディに、和葉が顔をあげ、かすれた男性ボーカルの声が聞こえはじめると、満足げに目を細めた。
「きれいな曲」
「だろ?」
千紘の感想に頷いた和葉は漫画を一冊持ったまま、ずるずると傍まで這ってきて千紘の背後へと回る。不思議に思ってその行動を目で追っていたら、不意に背中に体温を感じた。
突然の和葉の行動に頭がついていけない。事態を察したら察したで、うわっとの熱が上がっていく。
千紘の体を背もたれにしているのが、目で見なくても触れている個所から分かる。心臓の音が聞こえてしまいそうで、動揺が隠せなかった。
きっと今、顔が赤い。
「せ、先輩」
いったいなにが起こったのか分からず戸惑っていると、背中の重みが増した気がした。ぺら、と漫画のページをめくる音が聞こえる。千紘はこんなにおろおろしているというのに、和葉はマイペースに漫画を読んでいるだけだ。
「あ、これ、一番好きな曲」
呑気な声に頭をかきむしりたくなったが、とりあえずあとでタイトルと歌詞を確認することを忘れないようにする。嗅ぎ慣れない柑橘系の香りがして、そっと息を吸い込んだ。
柔らかな和葉の髪が、首の付け根に当たる。明るい、色素の薄い色の髪ではあるが、染めてはいないらしい。「だって校則違反だろ」と、和葉自身に当然のことのように言われたことがある。
「いいなあ、一人暮らし」
漫画を読みながら、アパートについてから何度も繰り返された台詞を、和葉は懲りずに口にする。
「それ、さっきも聞いた」
「だってさあ。羨ましいよ」
「そうだね。慣れれば楽だよ。ときどき伯母さんが様子見にくるから、あんまり悪いことはできないけどね」
「悪いことなんかしなさそうな顔してよく言う」
それほど善人でもないのに、悪いことなんかしなさそうな顔、とはどういう顔なのか。首を傾げてみても、千紘は和葉でないので、和葉の目がどのように千紘を映しているかなんて分からない。
一人暮らしをしてみて、確かに最初のうちは誰もいないアパートに帰ることに寂しさを覚えたものの、それもすっかり慣れてしまった。どうやら、一人暮らしというのは自分の性にあっていたらしい。
すっかりその生活が板についている千紘を見て、和葉はしきりに羨ましがっている。裏を返せば、今の和葉の生活にそれだけ不満があるということなのだろう。
「帰りたくねえなあ」
背中の温度が離れたと思ったら、和葉が体を横に倒し、フローリングに寝転がっている。横顔に散らばる髪の毛に触れたくて、手を伸ばしたけれどすぐに引っ込めた。その代わり、甘えるようにして和葉の顔を上から覗き込む。
「いつでも、うちに逃げてくればいいよ。……先輩が泊まってくれるのは、嬉しい」
ちら、と和葉が目だけで千紘の顔を窺ってくる。目尻がぴくぴくと動いていて照れているのが分かった。
「本当かよ」
「本当。先輩だからって、気を使ってるわけじゃないからね」
英語は苦手というわけではないけれど、流れてくる歌の意味は分からない。分からないからこそ邪魔にならない、と言った和葉の言葉の意味が分かった気がした。和葉が持っているという別のCDを貸してもらえるのが待ち遠しい。
「……じゃあ、……そうする」
言いにくそうにそう告げる和葉に笑みがこぼれた。うん、と頷くと、和葉の顔もくしゃりと緩み、突然、ばっと起き上がって千紘の頭を撫でまわした。
「あー、かわいい。明がお前を可愛がってる理由が分かる」
「ちょ、先輩っ」
「照れんなよ、ちーちゃん」
明の専売特許であった「ちーちゃん」という呼び方を使われ、自分でも驚くほど顔に熱が集中する。
きっと、今自分はゆでだこのようになっている。和葉も気付いているようで、千紘の変化をぽかんと口を開けて見ていた。手は千紘の頭に伸びたままで、ひどく距離が近い。
「え?」
呆けた和葉の声に我に帰る。
「駄目! 先輩はちーちゃん禁止っ」
「なんでだよ。明は呼んでんじゃん」
「小さいころの癖だよ。恥ずかしいからやめてって言ってるのにやめてくれないんだ。だいたい、先輩って俺の名前覚えてるの?」
千紘のことなどまったく眼中に入れていない和葉のことだ。期待せずに聞いたのだが、予想外に和葉はにっこりと笑ってみせた。
「ちひろ、だろ」
得意げにゆっくりと呼ばれる。胸が締め付けられるように、響きが甘く広がって、泣きそうになった。
「……合ってるよな?」
なにも言わない千紘に不安になったのか、だんだんと眉が下がり確認をとってくる和葉に慌てて首を縦に振る。自分はホモじゃないはずなのに、名前を呼ばれただけで心臓がうるさい。
ごまかすように立ちあがって、空になったグラスを手に取った。ガラスピッチャーに作り置きしているウーロン茶を注ぎながら、心を落ち着ける。
「……あいつにさ」
振り返ったら、和葉は肘を曲げ、腕の中に顔半分を隠したまま座卓に突っ伏していた。
「あいつ?」
「義兄だよ、義兄。さっきのオニイサン」
「ああ……。お義兄さんがどうしたの」
甘い夢の中に急に現実が飛び込んできた。先ほどの、嫌みなく整った男の顔が脳裏をよぎる。
「あいつに、もう少し大人になれないかって、言われた」
和葉の口調は重く、表情も暗い。そんなに言いにくいなら言わなくてもいいのにと思いつつ、キッチンに立っていた千紘は、和葉の傍に腰を下ろした。
「なんか、すげえ苛々するんだ。あいつを見てると苛々する。あいつ、けっこうちゃんとしたところで働いてるから、充分一人暮らしでもやってけるのに、なんでかうちにいて、生活費とか入れてる。夕飯食べるときとかもさ、俺の横にあいつが座るんだ。勝手に食って帰ってくればいいのに、うちで食べたがる。……俺が、夕飯を残すじゃないか、食欲がなくて。そうしたら」
笑われた、と落とされた声は落ち込んでいるようだった。
「わざわざ俺の部屋に来て、君の気持ちも分かるけど、もう十七だろって言われて。腹が立ったからそこへんにあった雑誌を投げた」
「当たった?」
「当たらなかった」
「当てちゃえばよかったのに」
茶化したような千紘の言葉に小さく笑った和葉だったが、はあ、とため息をついた。
和葉が新しい義母と電話をしているのを聞いた限りでは、それほど彼女を嫌っているようには思えなかった。うまくいかない原因はやはり義兄だ。
「お前のせいなんだって思った。お前が嫌いだから、お前がいるから食べたくないんだって。なんか、あいつ、やたらと話しかけてくるんだ。放っておいてくれたらいいのに、弟が出来て嬉しいって言って、こっちがどんな態度でいても、気にしてないって顔して近付いてくる。雑誌投げたときだって怒らなかった。いつまでも意地張って、俺が馬鹿みたいじゃないか」
数時間前に見た、和葉と義兄とのやりとりが浮かんでくる。
確かに和葉は、義兄に対して頑なな態度をとっていた。もしかしたら、大人になれと言われたときのやりとりを気にしてのことだったのかもしれないが、義兄のほうはそういう気配をみじんも感じさせなかった。新しい弟に、あくまでも気さくに接していた。
この前の食事会でもさ、と続ける和葉は、千紘に愚痴を言っているというよりも、自分の中に溜めていたものを吐きだしているような印象だった。
「あいつ、仕事みたいにして、愛想ふりまいてみんなの機嫌とってた。スムーズにことが運ぶように、空気を壊さないようにさ。俺だけだった。なにも喋らなくて、拗ねてたのは。最後に言われたんだ。ごめんって。複雑だろうけど、二人を許してあげて欲しいって。そのときにもうこの男なんか大嫌いだって思って」
嫌い、という言葉は、やはり和葉には荷が重いようだ。その言葉を口にするたびに、和葉は沈みがちになる。
「…………分かってるんだ。気に入らなくても、受け入れるしかない。もう十七だって言うけど、まだ十七だ。結局親に全部頼ってるわけだし、高校だって辞めれない」
「高校生が親を頼るのなんて普通だよ。みんなそうだよ」
「でも、あいつは高校生のころからバイトして母親助けてた」
負い目があるような言い方だったが、千紘も親の助けで一人暮らしまでしている身分だ。母親を助けるために働いていた美談を持ちだされると分が悪い。
「でも、うちの高校はバイト禁止だ」
自分への言い訳にも似ていたが、和葉は相槌としては、真剣すぎるようにも思える顔で「そうだ」と強く頷いた。予想外の反応に虚をつかれる。
「バイトは禁止だ。だからバイトはしない。俺は、高校を卒業するんだ」
「校則だから?」
「校則は守るさ。髪も染めてないだろ。ピアスも開けてない」
「開けたいの?」
「興味はある。でも開けない」
「高校を卒業するから?」
「そう」
アルバイトをしていたとしても、ピアスを開けていたとしても、それくらいですぐに退学になるような高校ではない。現に学校に隠れてアルバイトをする生徒を千紘も何人か知っている。
和葉も知らないわけがない。でも、それでも高校を卒業すると言いきるその表情には、なんらかの意思を感じた。
「でも、そのあとで、すぐに謝られたんだ。ごめんって。俺が大人げなかったって。じゃあいつまでもいじけてる自分はなんなんだって、またむかついて」
急に、硬くとがっていた顔が、ふてくされたものに変わった。
「……呆れた?」
「えっ、なんで?」
「だってくだらないだろ。嫌なことされてるわけでもないのにさあ」
「くだらなくないよ」
いつの間にか、CDが終わり部屋は静かになっている。
和葉は居心地悪そうに俯いているが、頬がほのかに赤かった。勢いに任せたことに今さら照れたのだろう、居たたまれなくなったらしい和葉が腕の中に顔を隠した。その仕草に笑みが漏れる。
「なんか、べらべら喋っちまった……」
「うん。聞いちゃった。忘れたほうがいい?」
「……好きにしろ」
本当に、猫みたいだ、と思った。徐々に警戒心が溶けていくのが分かりやすい。まさか、明のいないところで、明でなく自分に弱音を吐いてくれるとは思わなかった。
和葉がのっそりと起き上がり、CDラジカセのほうに這いながら移動し、勝手に再生ボタンを押した。
「でも」
掠れた男性ボーカルの声にかぶさるようにして、和葉が呟いた。
「……明日は、ちゃんと夕飯が食べれると思う」
「ん?」
「本当に、残してばっかだったんだ。真由美さんの夕飯」
真由美さん、という声に棘はない。電話で義母と話していたときの和葉の言い方とかぶった。
再婚に反感を覚えながらも、食事を残していたことに関しては罪悪感があったのだろう。そこを義兄につかれたものだから反発してしまったのだ。和葉は、やっぱり見た目よりもずっと真面目だ。
「ありがとう」
目を見て言われ、むずがゆい思いで千紘は首を横に振った。
和葉の好きなCDを流しながら、漫画を読む和葉の横で、ひとり勉強をしているうちに夜が更けた。
「読みたいのがあったら貸すけど」
客用の布団を出しながらそう言うと、少し考える仕草をした和葉だったが「いいや」と漫画を置く。
「ここに来たとき、読むことにする」
柔らかい笑みに、胸が高鳴る。本当に、和葉はまたこの部屋に来てくれるだろうか。淡い期待はじわじわと指の先にまで広がっていく。
電気を消した後も、ぽつりぽつりと話をした。先に寝息が聞こえてきたのは和葉のほうだ。同じ部屋に和葉がいるということを、ここにきて意識してしまった千紘は、ベッドの中でなかなか寝付くことができなかった。
二人が起きたのは昼過ぎで、部屋でだらだらしていたらあっという間に夕方になった。
いったい何時に帰るのか、和葉の口から「帰る」という言葉を聞きたくなくて、そわそわしていたら和葉の携帯電話が鳴った。いつまでも鳴り続ける着信音に不思議に思い顔を向けたら、和葉は苦虫をかみつぶしたような表情で画面を見つめていた。
「どうしたの」
「……あいつから。番号を勝手に父親が教えてさ。登録するのも嫌なのに、何回もかけてくるから覚えた」
そう言って目を伏せた和葉だったが、ふ、と千紘のほうに視線を寄こし、眉をわずかに下げて、ボタンを押してしまった。
(……出るんだ)
相手が諦めるのを待つだろうと思っていただけにその行動にはショックを受けた。もっと言えば、そのまま電話を切ってしまうことを期待していた。
昨日、あれだけ義兄に対し頑なな態度をとっていた和葉だから、それくらいしても不思議ではないと思ったのに。
「……なに?」
和葉の態度は、昨日義兄に対峙していたときのものよりも幾分軟化しているように見える。
「そう、後輩んち。……別に、関係ない。今日は帰る。……たぶん、六時くらい。うん。……はあ?」
突然大きくなった声に、千紘も驚くが、それ以上に和葉のほうが目を丸くして携帯電話を握りしめている。
「いいよ。一人で帰れる。迎えなんて」
焦る和葉の様子に、聞いている千紘のほうに苛立ちが募る。
今すぐ電話を取り上げてしまいたかった。あの男と、これ以上話をさせたくない。
絶対に、和葉は断るはずだ。昨日、あれだけ嫌いだと言っていたのだから。そう思っていたのに、和葉は渋々ながら、確かに、頷いた。
「……分かった」
硬い声ではあるものの、ずいぶんと素直な言葉に指先が冷たくなっていく。
それから和葉が話し始めたのは、間違いなく駅から千紘の家までの道順だった。歩いて数分のところにあるコンビニを、和葉が指定する。
電話を切った和葉は、疲れ切ったように息をついた。
「お義兄さん、迎えに来るの?」
意識して、笑顔を作った。千紘の気持ちも知らずに、和葉は力なく頷く。
「嫌いだって、言ってたじゃない」
「嫌いだよ。でも、意地をはってばかりもいられないから」
お前が言ったんじゃないか、と続けた和葉に眉を顰める。
「好きも嫌いも、自分の気持ちのさじ加減だって」
和葉とのやりとりは、小さいことまで覚えている。そのため、いつ、そんなことを言ったのか、千紘にはすぐ思い出すことができた。
言った。確かに言った。
「あいつとも、ちゃんと、向きあわなきゃいけないのかもしれない」
和葉の言葉に詰め寄りそうになる。
向き合わなくていい。嫌いでいい。どうして。
「昨日、お前にいろいろ話を聞いてもらって、ちょっと、楽になったんだ」
和葉が微笑む。見たことのない、優しい笑い方だった。
「千紘の、おかげだ」
照れたように目を細める和葉は、誰にもその顔を見せたくないと思うほど可愛かったけれど、笑みを保つのがやっとの千紘には「そっか」と言うだけが精いっぱいだった。
いい、という和葉の言葉を無視して無理やりコンビニまでついていった。駐車場に停められていた白い乗用車から、にこやかに見覚えのある男が出てくる。
「和葉君がお世話になったみたいで。ごめんね」
これ、よかったら食べて、と差し出されたのはケーキ屋の箱だった。
「プリン、嫌い?」
「……大好きです。ありがとうございます」
好きでも嫌いでもなかったが、勝手に口からついて出た。
うまく笑えているか分からないが、それすらどうでもいい。
和葉が千紘のアパートに泊まったのは、千紘の我儘だ。謝られることでも、お礼をもらうようなことでもない。
それなのに、まるで迷惑をかけたとでもいうように上から言われるのに苛立った。少なくとも、この義兄にはなにも関係ないことだ。
「まさか、迎えに来させてくれるとは思わなかったな」
観察するように千紘のことを見ていた視線が今度は和葉に移動し、嬉しそうに微笑んだ。
「は?」
「嫌がられるかと思ってたけど、よかった」
怪訝そうな顔をする和葉に、軽い調子で「どっかに寄ってから帰ろうか」と提案している。
「先輩」
思わず大きな声が出ていた。車に乗らないでほしかったし、帰らないでほしかった。もう一度、同じ道をたどって自分のアパートにまで戻ってほしい。さっきまでの幸せな時間が、とても遠い。
千紘が呼んだことで、和葉と和葉の義兄のふたつの目が千紘に向けられた。
嫌いなんだよね、と、問いたかった。
「また、いつでも遊びに来てね」
代わりに出てきた、あたりさわりのない言葉に、それでも和葉の目は柔らかく細められる。
「うん」
そのとき、華奢な和葉の肩に手が回された。義兄のものだ。
「よろしくね。さ、帰ろう」
まるで女の子にするように、男が助手席のドアを開けて和葉を促す。和葉の眉間には皺が寄っていたけれど、手を払うようなことはしなかった。ドアを閉め、振り返った男と目が合う。
瞬間、男は、まるで挑発するように口角をあげてみせた。
え、と目を見開く間に、男も運転席のほうへと回ってしまう。
「和葉君のこと、どうもありがとう」
舐めまわすような、千紘にとって覚えのある視線が絡みつく。ざっと血の気が引いていく。
この男が、危険だと感じた理由にようやく思い至る。車の中から、和葉が不思議そうに千紘を見ていたので、慌てて笑顔を取り繕った。
焦りと苛立ちが胸の中を渦巻いている。行かないでほしい。だって、その男は。
エンジン音が響き、立ちつくす千紘を残して車は発進してしまった。
取られたくない。今まで感じたことのないような強い感情が溢れだしてしまいそうになる。この想いの正体はなんなのか。答えは、その日の夜に現れることになる。
――夢を見た。
「…………これは駄目だろう」
寝起きのため、低くかすれている声でひとり呟く。覚えのある解放感と、それにともなう罪悪感。
「……むせい」
今一度、自分に起こった現象を冷静に判断した結果が、頼りなく口からこぼれた。
いい加減、和葉への気持ちを自分でも認める気になっていたのだ。あと少しで自ら踏み出せたというのに、変なところから横やりを入れられた気分だ。
分かりました、間違いありません、そうです、俺は先輩が好きですよ。
だから、あの男のことが気に入らない。きっと、おそらく、あいつも自分と同じだ。
いつまでも答えを出さずにうだうだしているせいで、強制的にあんな夢を見せられたに違いない。
裸の和葉を押し倒し、そして押し開く夢を。
「ああ、もう恥ずかしすぎる」
夢精とか夢精とか夢精とか。おかずにするならまだしも夢精とか。
夢精など、今まで一度も経験したことがなかった。下着が濡れている感覚が、こんなにも後ろめたい。
最低だ、泣いてしまいたい、先輩ごめんなさい、と千紘はベッドの中で頭を抱え呻いた。