3.
自分は普通ではないかもしれない、という疑惑は、以前からあった。疑念が強まったのは中学生のころだ。
お前、ホモじゃねえの、と千紘を指差したのは誰だったか。
彼女がいないならまだしも、好きな子もいないなんておかしいと笑われた。男らしさのかけらもない見た目も悪かったのだろうし、女子の話で盛り上がる男子生徒の輪からいつも外れていたのも理由のひとつかもしれない。
当時、千紘はまだ成長期が来ておらず制服を来ていなければ女の子に間違えられることもたびたびあった。冗談で「千紘とならやれる」とまで言い出す男子もいた。
別にいやがらせなどではなく、本当にからかいのつもりだったのだと思う。だが、その言葉は千紘にぐっさりと刺さった。以前、好きな人はいないのかと聞かれたときに浮かんだのが明の顔だったことを思い出したからだ。
明とは、家がそんなに近い距離にないため頻繁に遊べるわけでもなかったのだが、小学生のころから家の電話を使って二日置かず話をしていた。
明は来るもの拒まずの人間なので、千紘がかまってくれとねだればねだったぶんだけ、相手をしてくれる。明の話を聞くのは、女子のことで盛り上がるよりも楽しかった。
自分はホモなのか。
その疑惑は、なかなかショッキングなものだったが、決めつけてしまうにはまだ理由として弱い気がした。ただ単に、今は女の子に興味が持てないだけだ。だいたい男に告白されても、全くなにも感じなかったじゃないか。
そう。男とつきあうチャンスはあった。
隣のクラスにいたサッカー部の男に告白されたときだ。背が高く、同い年とは思えない大人びた印象の生徒だった。
容姿のせいか、変態に目をつけられたり、バスケ部の先輩に押し倒されたりしたこともあるが、面と向かって男に好きだと言われたのはそれが初めてだった。しかし千紘は断った。男前だったし、性格もよさそうだった。本当に男が好きであれば、そんな男からの告白ならちょっとくらい心が揺れてもおかしくなさそうなものだが、千紘はそうじゃなかった。男に組み敷かれる自分なんて、想像するだけでぞっとした。
告白は真剣だった。だが、その生徒は、初めからいい返事なんて期待していないようでもあった。瞳には、諦めの色がありありと浮かんでいた。気持ち悪いとは思わなかったけれど、同性を好きになることへの報われなさに同情した。
じゃあ、明のことはどうなのか。好きだったのだろう。でも、それは自分にないものをもっているものへの憧れに近い、と今なら思う。
誰にでも好かれて、誰のことでも好きになる明は、なんだか別の世界にいるようで眩しかった。実際、明に好きな子の相談をされたり、彼女ができたと報告されたときも辛いと思ったことはない。わずかに寂しさを感じて、それで終わりだ。
和葉のことだって、明の親友だから気になるだけ。気になるから、仲良くなりたいだけだ。別に、自分はホモなわけじゃない。今だってそう思っている。
「それだけ?」
パックの牛乳を飲み終え、すぐにその場に寝転がったってしまった和葉を上から覗き込んだ。和葉はいつも、二番目のボタンまでシャツを開けている。そこから覗くTシャツが、今日は赤だ。
珍しく朝から晴れていて、無機質なコンクリートは、太陽の光を浴びて熱いくらいだ。和葉に自分の影が落ちているのを見た。このまま顔を近付けたら、という淡い想像をするが、絵が浮かぶ前にそれは消えた。
和葉の打ち明け話を聞いて一週間。心なしか少し痩せたようにも思える和葉は、ぼんやりと千紘の顔を見つめて、うん、と頷いた。やっぱり元気がない。
「大丈夫?」
「大丈夫。カルシウムはとったから。なんか、固形のもの食べたくないんだよな。……岡崎って」
「なに?」
「目がきれい」
不意の賛辞に、褒められた目をいっぱいに見開いた。
どんなタイミングだ。視線に負けて目を伏せると、和葉の笑う声がした。顔が熱くなっていくのを、固く口を結ぶことでごまかす。
なんでも頑張る宣言がよかったのか、少しずつ、和葉との距離が縮んでいっている気がする。
少なくとも、千紘自身、和葉に声をかけるのに戸惑いがなくなった。人間関係を築くにあたり、完璧なる受身の和葉には、自分から動くしかないと悟ったというのもある。
「ちゃんと食べないと体に悪いんじゃないのー? 固形が駄目なら、ヨーグルトとかは? 買ってきてあげようか」
受身には程遠い、社交性にかけてはずば抜けた才能を持つ明の今日の昼ごはんは珍しく弁当だ。したがって、本日は千紘のパンが狙われる心配はない。
いつにない親友の優しい言葉を和葉は怪しく思ったようで、疑った目で明を見やった。
「なに、まさかお前が買ってくれんの」
「買いにいくのはちーちゃん。でも俺のおごり」
当たり前のようにパシリ要員になっているのはいつものことだ。逆らうこともなく、むしろヨーグルトなら確かに食べやすそうだと千紘も賛成する。
「とりあえず、なにか食べたほうがいいんじゃないかな」
どうする? と尋ねる千紘に、和葉は困ったように首を横に振った。
「基本的には適当だし面倒くさがりだしだらしないのに、変なとこで繊細なんだよな、和葉って。なにかあるとすぐに食べられなくなるんだから」
幼馴染だからこそ言える明の分析に、和葉はむっと眉根を寄せた。不機嫌になった和葉を見て、明は明るい声で「本当のことだろー」と笑ってみせる。
二人のやりとりを見ているのは微笑ましい。けれど、それと同じくらいに、寂しい。
明に「適当」と評された和葉は納得できないようにむくれている。それもそうだろう。適当なんて、明にだけは言われたくない言葉だ。適当なうえに楽観的で、自由人。和葉が授業をさぼった日以来、すっかり屋上が気にいってしまった明の希望により、この一週間はコンクリートの上で昼食をとっている。
その間に和葉の食欲は徐々に失われ、今日はとうとうパック牛乳のみだ。食欲がないのは屋上のせいじゃないことは分かっているのだが、昼食を終えると決まって横になる和葉に、地面が固くて痛いんじゃないのかと余計な心配をする。
「なあ、明は今日、暇だったりすんの?」
ふと思いついたように和葉が顔をあげると、明は嫌そうに、その中に若干の申し訳なさを含ませつつ「今日はだめ」と言った。
「エリちゃんと約束があんの」
エリちゃんとは、先月から明がつきあうことになった他校の女子生徒である。明の片思いであり、前々からエリちゃんについての話は千紘も和葉も散々聞かされていた。そのため、ようやく付き合えることになった彼女の名前を出されると、さすがの和葉も分が悪いと思ったのだろう。
使えねえ奴、とあからさまなため息をついて目を閉じるが、その表情は完全に諦めていた。そんな和葉に、明が身を乗り出す。
「どうしたんだよ急に。なんかあんの?」
「別にー」
気のない和葉の返事に、明は千紘に視線を寄こしてくる。そして再びそれを戻し、なにかを考えるように、じっと和葉を見つめていたが、おもむろに「あ」と明るい声を出した。
「ちーちゃんだったら暇でしょ」
「え? あ、うん」
急に話が回ってきて驚いたが、それは和葉も同じだったようだ。まだ内容すら言っていない明の提案に首を横に振りながら、慌てて体を起こす。
「いいよ。ちょっと買い物つきあってもらおうと思ってただけだし」
「だからちーちゃんにつきあってもらえばいいんじゃん」
「別に買いたいものがあったわけじゃなくて」
「帰りたくないんでしょ?」
さらっと明が発した言葉はどうやら図星だったようで、和葉はぐっと言葉に詰まっている。
家に居づらいのだろうということは、千紘でも予想していた。和葉が目に見えて元気がなくなっているのは、新しい「家族」と暮らすようになってからだ。
よっぽど相性が悪いのかとも思ったが、人づきあいが下手そうな和葉なら、どんな相手であれ知り合ったばかりの人間とひとつ屋根の下で暮らすことは大きなストレスに違いなかった。
加えて、今日は金曜日。明日から二連休で、家にいる時間はどうしても増える。外に出かけたらいいのだろうが、千紘が見たところ和葉には友人が明しかいない。その明の休日は、すでに彼女との約束で埋められている。
「ちーちゃんはいつも暇なんだから、なんだってつきあってくれるってー」
どこまでもお気楽な明に、和葉が本気で困っているのが伝わり、千紘も千紘でなんと言えばいいか分からなくなって焦った。今まで昼食は一緒にとっていたものの、三人でどこかに出かけたことすらないのに、いきなり二人きりはハードルが高すぎる。
そこまで考えて、いやこれはチャンスかもしれないと思いなおした。
仲良くなるためには自分から動かなければ不可能だ。幸いにも社交性に関しては神がかっている明の弟分として、いくらかの修行はつんでいる。
和葉は先輩や後輩のつきあいに和葉は無縁だろうし(だからこそ困っているのだろうが)、それだったら自分が「後輩」としてリードすればいいのじゃないか。
千紘には明だけでなく、三つ年上の姉もいる。つまり年下の人間としての在り方は、生まれたときから備わっているということだ。
できるだけさりげなく、無邪気さを装って明の言葉に頷く。千紘が明の提案にのってしまったことに、今度こそ本気で和葉は慌てていた。
「いいって、悪いって」
「なんで? 行こうよ、買い物」
「いいよ! お前、いいよ、先輩だからってなんでも言うこと聞かなくて。気持ちわるいだろ」
どうやら、自分と絶対に行きたくないわけではないらしい、と都合よく解釈する。できることなら行きたくないんだろうが、無理に自分につき合わせるのも悪いとも思っているようだ。
「別に先輩だから言ってるんじゃないよ。あ、じゃあ、俺の買い物もつきあってよ。欲しいCDがあるんだ」
和葉には申し訳ないが、あえて空気は読まないことにした。
和葉は明に助けを求めるように視線をやっているが、明は気付きさえもしない。そもそも、明がこの提案をしたのだから、冷静に考えて助けを求める相手としては不適格だろう。
そして、千紘は半ば強引に和葉との放課後の約束を取り付けたのだった。
靴箱で待ち合わせをしたものの、ホームルームが終わり三十分待ってもなかなか現れない和葉にしびれを切らし、千紘は二年の教室にまで迎えに行った。今にも逃げ出しそうな雰囲気の和葉であったが、先に帰るようなことは絶対にないだろうと思えた。和葉と明がいるはずのクラスを覗くと案の定、ひとり机に突っ伏する和葉の姿があった。明がいないということはとっくにデートに出かけたのだろう。
「和葉先輩」
さすがにずかずかと二年生の教室に入るのは憚られたため、ドアのところで和葉を呼ぶ。はっとして顔を上げた和葉は、千紘と教室の掛け時計を交互に眺め、バツが悪そうに眉尻を下げた。
千紘を待たせていたことに罪悪感はあるらしい。長年明に振り回されてきた千紘にしてみれば、これくらいの時間を待つことなどどうってことない。
「わりい」
観念したように立ち上がった和葉は、軽そうな鞄を脇に抱え足早に千紘のところまでやってきた。
一年生の姿が目立つのか、教室に残る生徒たちの視線が不躾にささってくるが、あまり気にはならない。それよりも、隣に和葉が立っているのがまるで現実味がなく、夢だと勘違いして変なことをしてしまわないよう気を引き締めた。
学校の近くにはなにもないので、四駅先の、ここらでは一番にぎやかな市街地へと出るため電車に乗る。
和葉が帰る方向とは反対に電車は進んでいく。学校終わりの学生で電車の中はわりと混んでいたが、二人で出入り口近いところを陣取った。
和葉は体を壁に預け、ぼんやりと窓の外を見ていた。車窓から広がる海を見ると、海しかないこの町にも少しだけありがたみがでてくる。
自転車を使えばすぐに行けるところに海がありながら、千紘はいつも学校や電車からこうして眺めているだけだ。ただそこにあるだけの景色なのだが、今日のように晴れた日は、海面に光りが反射し、とても綺麗だ。
会話はほとんどなかったが、沈黙を気まずいとは感じなかった。体を揺する電車の振動が、優しい。気まずさを消す適度な騒音というのもあるのだと、妙に感心した。
目的の駅で、半数以上の人が電車を降りていく。金曜日だということもあって平日のわりには人が多かったが、休日はこの比じゃない。遊ぶ場所に飢えている若者は、土日になるとこぞってここへと集まってくる。
他に行く場所はないのかとつっこみたくなるが、他に行く場所がなくてここに来ているのは自分たちも同じだ。
どこへ行くかと和葉に尋ねたら、「CDを買いに行こう」と言われた。口から出まかせだった、千紘の「欲しいCDがある」発言を信じているらしい。
最初からその場所を指定するということは、本当に家に帰りたくないだけなのだろう。CDショップへと向かいながら、最近新しく出たCDで買いたいものがなにかあったか頭を巡らせる。
相変わらず和葉は居心地が悪そうだったが、あまり気にせずに話しかけた。和葉はどんな音楽が好きなのか、どういう曲をよく聞くのか、なにか趣味はあるのか、普段はどこへ遊びに行っているのか。
いろいろ訊ねているうちに、和葉のほうからもぽつりぽつりと千紘に対して質問をよこしてきた。他愛もないことだったが、自分が質問することよりも緊張した。
店につき、CDを選んでいると、隣から和葉が覗き込んでくる。
「洋楽? お前も聴くの」
「ときどき。でもさっき先輩の話聴いたから、欲しいなと思って」
「欲しいCDあったんじゃないのか」
「それはまた今度」
なんだそれ、と笑った和葉は、それでもお勧めのミュージシャンを教えてくれた。言われた通りにCDを購入した千紘に和葉もどこか嬉しそうで、その顔が見られただけでも今日は充分に思えた。
「気に入ったんなら、別のうちにあるから、それ貸すけど」
「えっ」
和葉の嬉しそうな顔で満足していたはずなのに、予想外の申し出に自分でも呆れるくらいの明るい声が出た。きっと顔にも出ている。和葉は苦笑しながら、「いいよ」と頷く。
「気に入ってくれたらいいな。明とは好きな音楽バラバラだから、あんまり話合わないんだ」
「明君って確か歌謡曲とか好きだよね」
「あー、それは終わったっぽい。最近はなんか、アニメの歌。エリちゃんが好きなんだと」
影響されやすいんだよな、あいつ、と顔をしかめる。「あいつ」の言い方が思い切り拗ねていて、苦笑が漏れた。笑った千紘を、和葉はただ単にアニメの曲を聞く明に対して呆れているのだととったようだ。
CDショップを出ると、和葉がよく行くという靴屋と帽子屋に連れて行ってもらった。商品を見ただけで二人ともなにも買わなかったが、服よりも小物が好きなのだと言ってかぶったキャップは和葉によく似合っていた。
千紘がいることにも慣れたのか、ずいぶん和葉の表情も柔らかくなっている。たぶん、和葉のお勧めのCDを買ったのがよかったのだ。和葉の話を聞いてそのCDが欲しいと思ったのは本当だが、迷わず行動へ移した自分の判断を褒めてやりたい。
どういう会話の流れだったかはっきりとは分からない。ただ、何時に家に帰らなければいけないか、とか、そういう話だったと思う。
「え、岡崎って一人暮らしなの」
きょとんとした顔の和葉からそのセリフを聞いたとき、千紘はその場に崩れ落ちそうになった。
「そうだよ、言ったよ! 実家はちょっと遠いから親戚が経営してるアパート安く借りてるって!」
大きな声を出してつっこむ千紘の気持ちを知ってか知らずか、和葉はへらへらと笑いながら「ごめん、まじで聞いてなかった」と悪びれない。
「別にいいけどさあ」
本当に自分のことなんかこれっぽっちも興味がないんだなあ、と打ちのめされた気分だった。浮かれていた気分がぱちんと弾けたものの、これしきのことではくじけない。
「遊びに来てよ。いつでも家にいるから」
ちゃっかりと宣伝をする千紘の下心には気付かず、和葉が食いついてきたのは別のことだった。
「へえ? あんまり外に出ないのか」
「基本的にね」
「確かにお前、肌とか白いもんなあ。引きこもりー」
「これはね、体質なんだよ」
目に見えてズボンの生地が余っているのが分かるほど華奢な和葉に、たかだか色白ぐらいでからかわれなくてもいいような気がするのだが、きゅっと細めた目が可愛かったので許した。
そして、これまでずっとチャンスを窺ってきたことへの決意を固めていく。
意識してにっこりと笑顔を作る。顔が整っているだけに、気をつけていないと笑った顔すら怖く見えるので注意がいる。失敗はできない。
「和葉先輩、アドレス交換しない?」
心臓がばくばくしていることを隠し、あくまで話のついでのように提案する。
驚いたように目を丸くする和葉に、緊張していることを気付かれないよう、できるだけさりげなく言葉を続けた。
「いつ遊びに来てもいいけど、連絡とれないと困るでしょ」
なんでもないことのように提案してみる千紘に、和葉は不思議そうに首を傾げた。イエスかノーの答えしかないと思っていたのに、よく分からないその反応に、緊張で吐きそうになる。
じりじりとして和葉が口を開くのを待っていたら、でてきたのは予想外の言葉だった。
「アドレス、知らなかったっけ」
とぼけた言い草に、せっかく頑張って作っていた笑顔があっさりと崩れた。体から力が抜けていく。
「し、知らないよ!」
「そうだっけ。なんかもう交換した気になってたわ」
そう言ってポケットから携帯電話を取り出す和葉に、今度は千紘のほうが驚いた。こんなにあっさり教えてくれるなんて思わなかった。これだったらもっと早く聞いておくんだった。
「……そのケータイ、古くない?」
「んー。店で一番安いのくれっつったからな。メールと電話できれば問題ないし」
予想はしていたが、あまり携帯電話を活用しないタイプらしい。和葉と用事以外のことをメールでやりとりすることは期待できないだろう。
二時間ほど適当に歩いて回ったが、買い物をしたのは結局千紘だけだった。
購入品はCD一枚だ。けれど、和葉がどんな音楽を聴くのか分かったし、アドレスも交換できた。距離を縮めるという目的は充分に果たせたはずだし、収穫としては合格点、いや、期待以上の成果だろう。
なんとなく小腹がすいた千紘の提案で近くにあったコンビニに立ちよると、和葉は迷うことなく雑誌のコーナーに向かい音楽雑誌を手に取った。
チョコレートを買った千紘がそれを横から覗きこむと千紘にも見やすいように雑誌を寄せてくれる。
このバンドが好きなんだ、と指をさしたのはやはり海外のミュージシャンだった。
「英語とか、全然分かんないんだけど、分かんないほうが邪魔にならないだろ」
「邦楽は聴かないの?」
「聴くけど、あんまり詳しくない」
雑誌を買うつもりもないままだらだらとその場にとどまっていたら、突然、「和葉君」と、背後から声が聞こえた。隣にいた和葉が振り返るのにつられ、千紘も顔を向ける。
そこにいたのは、はっと目を引く容姿をしたスーツ姿の男だった。体を傾けるようにしてこちらを見ており、和葉の顔を見止めた瞬間、端正な顔に笑みを浮かべる。
「やっぱり」
落ち着いた声だったが、年齢は二十代前半に見える。すらりと背が高く、自然と見上げる形になってしまう。
スーツの着こなしや仕草にも清潔感があり、爽やかさの塊みたいな男だった。
「和葉君だった。ちょうど前を通りかかってさ。似ている人がいるなと思って寄ったんだけど、声をかけてよかったよ。友達と遊んでたのか?」
言い方は穏やかで、いかにも人が良さそうなのだが、話しかけられているはずの和葉は眉間に皺を寄せて口を開こうともしない。
つい先ほどまで機嫌よく好きなバンドを教えてくれていたはずなのに、その名残もなく、ただ男を冷たく睨みつけている。だが、男はそんな和葉の態度に気分を害した様子もなく、にこりと笑い、視線を千紘に移してきた。
柔らかな雰囲気は、とらえどころがなく、なにを考えているのか掴めない。もしかしなくとも、これが――
「初めまして。和葉君の兄です、といっても、最近、兄になったばかりなんだけど。知ってるのかな、こっちの事情は」
「……お父さんが再婚して、新しくお義兄さんもできたって聞いてます」
「そうそう。そうか、やっぱり友達とは口をきくんだな」
面白がっているような男の言い方に和葉は明らかにむっとしたようだったが、今度は「別に」という答えにもなにもならない返事をした。
「これから家に帰るんだろ。車を近くに停めているから、乗っていかないか。お友達も、よかったら一緒に」
和葉の分かりやす過ぎる拒絶に、男は少しも動じていない。これだけ明らかに近寄るなというオーラを出されておいて、一緒に帰ろうなんて本気だろうか。だが、すぐに断ると思った和葉は、ぴくりと雑誌を持つ指先を震わせた。思わず和葉の顔を見る。
男を睨むその瞳に、戸惑いが浮かんでいるような気がした。和葉が、「嫌いだ」と、言っていたはずの男だ。
嫌い、という言葉を反芻する。他人にあまり興味を持たない和葉が、早々に「嫌い」という評価を下した男。「なんとなく」嫌いだという、義兄。
(――駄目だ)
気付けば勝手に口が動いていた。
「すみませんけど、買い物に付き合ってもらう予定なんです」
驚いたのだろう、和葉から視線を感じたが、千紘は和葉の義兄から目を反らさなかった。
「まだ買い物するのか?」
六時半になろうとしているときにコンビニでうろついておきながら、明らかに不自然ではあったが、当然のように「はい」と言い切った。そんな千紘を、男は片手を口に当て興味深そうに見つめてくる。
「君、名前は? 和葉君の友達なんだよね」
「岡崎です。友達ではなく、後輩です。和葉先輩には、お世話になっています」
「後輩かあ。和葉君が年下の子と仲良くしてるなんて思わなかったな。意外に面倒見がいいんだ?」
この、上から下まで舐めまわすような視線には覚えがあった。これまで千紘がいくども味わってきた感覚。
まさか、と予感がする。だが、千紘がその視線を不快に思う前に、男は「残念だな」と眉を下げた。そして和葉に顔を向ける。
「あんまり遅くなるなよ。夕飯はどうするんだ」
「食べて帰ります」
和葉への質問に、横から千紘が返事をした。
男の瞳が細められ、そのなかにちらりとなにかがくすぶっているような気配があったが、それはすぐに消えてしまった。和葉の義兄は苦笑しながら自分の腕時計に目をやる。そんな何気ない仕草だけで、きっとこの人は、ものすごくもてるのだろうと分かる。
「そうか。じゃあ母さんにはそう伝えておく。気をつけて帰ってこいよ」
あくまでも優しく話しかける義兄に、和葉は頑なに返事をしなかった。片手を上げ、遠くなっていく背中を睨みつけている。あの男を視界に入れてほしくなくて、和葉の作り上げていた冷たい空気の中に無理やり踏み込んだ。
「ごめんね。勝手なこと言って」
声をかけると、和葉は我に返ったように千紘に顔を向けた。
「なんで謝るんだ。……助かったよ。あんなやつと帰りたくなんてないからな」
そう言ってわずかに口の端を歪める和葉の顔をじっと観察する。本当に、そう思っているのだろうか。
和葉は義兄を嫌いだと言っていた。それが本音なのであれば、きっと自分は助け舟を出したことになるのだろう。でも、ならあの表情はなんだったんだ。
あいつと一緒に帰ってほしくない、なんて、完全な自分の我儘だった。怒られるかとさえ、思ったのだ。
「……あのさ」
和葉が体の向きを変え、見もしないくせに再び雑誌に目を落とす。
「ん?」
「あいつのこと、どう思った」
いきなり義兄の感想を聞かれて戸惑う。正直にいえば、むかついた。だが、むかついたのは、和葉が絡んできたからだ。和葉のことがなければ、優れた容姿をしたただのサラリーマンだと思うだろう。確かに見目はよかったが、それ以下でもそれ以上でもない。
「先輩は、あの人のこと嫌いなんだね」
答えを言わずにそう返すと、雑誌を持つ手がぴくりと動いた。
「…………嫌いだ。あいつを見ていると苛々する。一緒にいたくないし、話したくないし、顔も見たくない」
吐き捨てるように言ったくせに、俯き瞼を伏せる和葉はどこか落ち込んでいるようにも見える。そんな和葉の目が、ちら、と窺うように千紘を見た。
「そう思うのって、おかしいか」
「なんで?」
「嫌う要素がなさそうだろ、あいつ」
苛立っているのは、義兄になのか、和葉自身になのか分からない。でも、どうやら理由もなく人を嫌う自分に戸惑っているようだった。
「嫌う要素がなくても、先輩が嫌いなんだったらしょうがないよ。好き嫌いなんて、自分の気持ちのさじ加減じゃないか」
「……そうなのかな」
「俺も、あの人のこと好きじゃないよ。先輩が嫌いな人だからね。単純でしょ」
きっと、和葉が義兄のことをもし嫌いじゃなかったとしても、自分はあの男が気に入らないだろうが、言わないでおく。
「自分の気持ちのさじ加減、か」
「そうだよ。それに、好きとか嫌いとか、時間が経つうちに変わっていくものなんだから。いちいち気にしてたらきりがないよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
周囲に対してあまり関心を持つことがなかったのであろう和葉は、誰かを嫌うことに慣れていないのかもしれない。嫌いなものを無理して克服する必要はないと思うのだが、和葉はどうしてだか罪悪感を持っている。
軽い調子でいい加減なアドバイスを送る千紘に、和葉が「そっか」と言って薄く笑った。
「あーあ、帰りたくないな」
空気を変えるようにわざとらしく調子を変えた和葉をじれったく思う。
帰りたくないのなら帰らないでほしい。本当に嫌っているとしても、なんらかの関心を抱いている男と一緒にいてほしくなんかないし、話してほしくなんかない。
和葉が切り捨てたのは義兄で、隣にいるのは千紘のはずだ。それなのに、和葉は義兄のことばかり考えている。
「帰らないでよ」
ぽつりと、本音が口からこぼれた。
不思議そうに目を丸くした和葉に、にっこりと笑みを作ってみせる。
「帰りたくないなら、帰らなくていいじゃん。ちょうど明日休みだしさ、うちに来なよ。泊まっていけばいいよ。一人暮らしだから、誰もいないし、気を使う必要もないから」
無邪気なふりをして肩に手を置いた。自分から和葉に触れることは初めてなことを触れた瞬間思い出し、心臓が飛び出しそうになった。
和葉は意味が分かっているのかいないのか、呆けた顔をしている。困ってくれればまだ対処のしようがあるのにと焦りながら、それを顔には出さないようにして反応を待つ。
「お前、先輩だからってそんなに気を使うことないんだぞ」
呆れたような声に、慌てて首を横にふった。
「別に気を使って言っているわけじゃなくて、ただ本当に、先輩がうちに来てくれたら嬉しいなって……」
言い訳の途中で徐々に語尾が小さくなったのは、千紘の目の前で、和葉の顔にゆっくりと笑みが広がっていったからだ。
「かわいいなあ、お前」
「えっ」
目を細めて、照れてるような顔をする和葉を前に、せっかくさりげなさを装っていたのが無駄になるくらいうろたえてしまう。
瞬きもできないでいる千紘に向かって、和葉が次に発した言葉は、さらに予想外なものだった。
「じゃあ、……泊めてもらおうかな」
息が止まりそうになった。
信じられない。
嬉しいという気持ちが追いつかないままに、口元がにやけ、頬が上気するのが分かる。
「うん」
頷くと、じゃあ行くか、と和葉が千紘の肩を叩いた。その叩き方が親しげで、目眩がした。
和葉が携帯電話を取り出し、電話をかける。相手は新しい母親だったのだろう。ぎこちなくも、今日は友人の家に泊まることを告げた和葉の顔は、義兄と対峙していたときに比べて拒絶の色がない。
相手の声は聞こえないが、こちらが歯がゆくなるような和葉の話し方を聞きながら、千紘は優しい気持ちになっていった。苦手な相手であっても、和葉はちゃんと連絡をいれるのだ。
なに笑ってるんだよ、と電話を切った和葉に言われ、自分が笑っていたことを知った。
行きとは違い、電車に乗り込んだら自然と会話が弾んだ。好きな音楽や、映画。学校での出来事、休日の日の過ごし方。千紘が考えて質問を作らなくても、和葉がゆったりとした口調で知りたかったことをそうと知らずに教えてくれる。
同じ駅で降りて、同じ方向に和葉と歩いた。見慣れた景色のはずなのに、隣に和葉がいるというだけで世界が違っているようにも感じられた。