2.

 実咲に遊びに来るように言いはしたものの、正直、そんなことにはならないだろうと思っていた。だが、意外なことに「遊びに行っていいか」と聞いてきたのは実咲からだった。
 宗太のアパートに家族以外の誰かがいるのを見たのは本当に久しぶりだった。
「うち、両親が帰るのはいつも遅いんだ」
 アパートに向かう道の途中で宗太は呟いた。どういう反応を見せるのか、少し緊張している宗太の横で、実咲は嬉しそうに、「じゃあ、あんまり早く帰らなくてもいい?」と聞いてきた。
 それから、実咲は毎日のように宗太の家に遊びに来た。両親は東京で暮らしていて、実咲だけが親戚の家で世話になっているらしい。愚痴を聞いたことはなかったが、やはり居づらいようだった。
 俺も一人でいるのは寂しいからいつでも遊びに来ればいい、と言ったのは宗太だ。今まで寂しいなんてことは思ったことなどなく、ただ実咲が遠慮をしなくていいように、気を使っただけだ。けれど、家の中に誰かがいるというのは思っていたよりも楽しい。一人のほうが気を使わなくて楽だと思っていたけれど、話し相手がいると景色も違って見えた。一人でいるのが当たり前になりすぎて、寂しいという感覚を忘れていたのかもしれない。
 ときどきは、宗太が作る夕食を一緒に食べた。おいしそうに食べてくれるのが嬉しくて、図書館で料理本を借りたりもした。
 いろんな話をした。学校のことや、趣味のことや、くだらないことばかりだ。その中で、実咲がよく口にするのは、日野明輝こと、「あっきー」の話だった。
「今まで喋れる人がいなかったから嬉しい」
 そう言って、CDやDVDを貸してくれた。なんだかいつの間にか宗太自身も日野明輝のファンに認定されていたが、特に否定はしなかった。実咲は周りに「あっきー」のファンであることを秘密にしているようで、だからこそ、今まで自分の中だけで貯め込んでいた熱い思いを吐き出せる場所、つまりは宗太の前では爆発してしまうらしかった。
 学校を出て一緒に宗太のアパートに帰ると、ドアを開けた早々に実咲はかぶっていた猫を脱ぎ捨て、まだ玄関先だというのに待ちきれないといった様子で鞄の中を探る。
「菊池くん?」
「待って待って。あったほら見て! CD買っちゃった」
 顔いっぱいに笑みを広げて、先週発売されたという日野明輝のCDアルバムを目の前に突き出してくる。宗太は眉を寄せた。
「……この前、同じの買ってた」
「なに言ってんの、違うよー。これは通常版。前買ったのは初回限定版。迷ったんだけど、でもやっぱり欲しくなっちゃって」
 限定版を買っているのならもういい気がするのだが、心から満足そうにしている実咲を見ていると、きっとファンにしか分からない違いがあるのだろうと思う。それを受け取り、古いCDラジカセにさっそくセットした。一曲目はドラマのタイアップにもなっていて、明るく分かりやすいメロディーだけれど実は歌詞が切ない。
 CDアルバムのジャケットでは日野明輝が斜め上を見上げ立っている。シンプルなのにそれだけで様になるのはやはり芸能人だからか。ふと、『日野明輝』の名前に目を止めた。
「……まぶしそうな名前してる」
「え?」
 ベッドに腰掛ける宗太の後ろからべったりと体をくっつかせ、実咲が覗き込んでくる。もしかしたら自分は実咲に懐かれているのかもしれない、と思うのはこんなときだ。実咲はやたらとスキンシップが多い。宗太なんて無愛想だし面白い話ができるわけでもないのに、実咲も物好きだ。
「日で、明るく、輝く」
 「日」と「明」と「輝」の漢字を順に人差し指で示す。「まぶしそう」と宗太が言うと実咲が笑った。
「本当だ。でもいいんだよ、あっきーは輝いてるもの。名前負けしてない」
 確かに、と頷く宗太に実咲は満足げだ。
 名前の話題になり、ふと気付いた。
「菊池くんも、男子にしては珍しい名前だな。『実咲』って」
 何気なく呟いた言葉だった。だがそれまで笑顔だった実咲の顔がしゅんとしぼんでしまったので、まずいことを言ったらしいと焦る。実咲の地雷は予測不能で、宗太はよく混乱する。
「……もしかして、気にしてる?」
「あんまり好きじゃない。だって女の子みたいじゃないか」
「そうかな。似合っているのに」
 宗太の肩に手を置き、身を乗り出した状態で、きょとんとしている実咲の顔がおもしろくて、思わず噴き出した。
「菊池くん、可愛いから」
 宗太がそう言うと、宗太を見つめていた実咲の顔が、みるみるうちに赤くなっていった。その顔が引っ込んでしまい、あれ? と思っていたら、ぽすんと背中に頭を預けられた。
「じゃあ実咲でいい。実咲って呼んで」
 子どものようなにおいと、くぐもった声がくすぐったい。おかしくなって、ええ? と尋ねると、実咲もくすくすと笑っていた。
「実咲くん?」
「呼び捨てでいいよ」
「……分かった」
 なにかむずむずする会話だった。くすぐったさに参っていると、視線を感じた。振り向くと、なにかを待つように、じっと実咲が見つめてくる。これは、もしかして――
「……実咲?」
 思いついて、小声で呼んでみると、花が咲いたみたいな笑顔を見せた。わっと顔が熱くなる。心なしか、実咲の頬も上気しているようだった。目を合わせられなくて、顔を戻して俯いた。なんだこれは。女子か。
 実咲が宗太の背中に頭をひっつけたまま、もごもごと口を動かす。
「ぼ、僕も……宗ちゃんって、呼んでいい?」
 うわあ、と口から漏れそうだった。どうにか抑え込んで、「もちろん」と頷くと、ひょこっとうっすらと赤くなった実咲の顔が飛び出す。にやにやしている口元すら可愛かった。
 気が済んだのか、実咲はいつものように、宗太と背中合わせになるような体勢になり寄りかかってきた。その姿勢で、宗太は小説を読み、実咲は漫画、ときに部屋に持ち込んだアイドル紙を眺めるのが常だった。
 男同士のわりに気持ち悪いとか暑苦しいとか思わないのは、おそらく実咲の容姿のせいだ。細い手足は子どもにしか見えなくて、まるで猫にじゃれつかれているようだ。
 教室で縮こまっているときは根暗で地味で無口な人間だと思っていたのだが、つきあってみると、実咲は馬鹿で素直で子どもっぽくて、その上、妄想力もたくましい変なやつだった。それに自分の前だけでそんな顔を見せると思うと、悪い気はしない。
「あっきーのどこが好きなんだ」
 本を読みながら、前々から疑問に思っていたことをふと訊ねてみた。確かにかっこいいが、顔だけだったら実咲も負けていない(と宗太は思っている)。なにがそんなに実咲の心を打つのか単純に興味があった。
「どこ?」
 予想外のことを質問されたようで、無防備に宗太の言葉を繰り返す実咲の声は幼い。「うーん」と考え込む実咲の口からなかなか返事がなく、即答されると思っていたのに少し意外だった。
「だって、かっこいいし……。顔もキレイなんだけど、ちゃんと鍛えてるし。あ、でも腹筋は割れないように気をつけてるって。そういうこだわりを持ってるところも好きだな。歌は外れるときもあるけど、ダンスは上手だし、演技もかっこいいし、笑顔を忘れないし。下積みも長いから、ファンを大事にしてるし……」
「うん」
「コンサートにはまだ行ったことないんだけど、でもすごいんだ。DVDとか観ると、本当にすごい。きっと、あっきーはステージの上が一番好きなんだ。ステージに立っていたいから、あんなに頑張れるんだ。みんながあっきーのためにひとつのところに集まってくる。あっきーはみんなのために、歌って踊るんだ。手抜きなんかしないで、全力で、みんなを楽しませてくれて」
 ようやく調子が乗ってきたのか、あっきーのいいところをべらべらと喋りはじめた実咲だったが、なぜか急に声が止まった。不思議に思って振り返ると、真剣な顔で手を口に当てている。
「…………あっきーは、みんなのものなんだ」
 ぼそ、と実咲が呟く。
「……うん?」
「みんなあっきーのことが好きで、あっきーはみんなが好きなんだ」
「はあ」
「………………そういうところが、安心するのかな」
 寂しげに聞こえたその声に、宗太は首を傾げて、ふうん、と間抜けな声を漏らした。


 その後、季節がめぐり、年が明けてからも、宗太と実咲は二人でひっそりと過ごしていた。
 ほかに友達はできなかったけれど、仲がいい人なんて一人いれば充分だったし、二人一組になってくださいと言われたときに、相手がいるのは単純に嬉しかった。三年生にあがり一緒のクラスになれたとき、実咲は宗太が引くくらいに喜んでいた。実咲は宗太にべったりで、宗太もそれを受け入れた。
 そんなときだ。宗太の転校が決まった。
 夏休みに入る直前のことだ。実咲がこの学校に来たのと同じくらいの時期だった。うだるような暑さが、コンクリートの道を焦がしていた。
 原因は両親の離婚だ。驚きはなく、むしろ遅かれ早かれ、いつかこうなるだろうとは思っていた。逆に、なぜまだ結婚しているのかが不思議だったくらいだ。母も父も、お互いに別の恋人の存在を隠そうとしなかった。
 母が宗太を生んだのは彼女が一六歳のときだ。妊娠が発覚して高校を中退した母だったが、若く人目を引く容姿をした母は、宗太の自慢だった。散らかっている部屋を母のせいにされるのが嫌で、自分で片づけることを覚えた。料理をするようになったのも、ポテトチップを食べるせいで母が非難されるのが嫌だったからだ。
 かまってくれない、子どものことなんてほったらかしの母親だったけれど、顔を合わせれば優しかったし、放っておけなかった。大人になりきれてない母のことを、分かってあげたかった。
 離婚は突然で、相談もなく、ある日、決定事項だけが宗太のもとに伝えられてきた。
「宗太は、お母さんとくるよね」
 そう言って抱きしめられたとき、すぐに頷いた。一瞬脳裏をかすめた実咲の姿は、考えないようにした。母が、ちゃんと自分を必要としてくれていることに泣きたくなった。
 転校のことを自分の口で知らせたのは実咲にだけだ。名字が変わること、母を一人にはできないから遠くに引っ越さなくてはいけないこと、もう会えないことを、できるだけ淡々と告げた。いつものように宗太の家に二人で向かっている途中だった。
 実咲はぽかんとしたままそれを聞いて、何度言っても信じようとしなくて、それでも本当なんだと言い続ける宗太に、ついには泣き出してしまった。
「駄目だよ。宗ちゃんがいなくなったら、どうしたらいいか分かんない」
 泣きじゃくりながら宗太の制服の裾を掴む実咲の手は震えていた。ひく、と喉を鳴らし実咲が俯く。地面に涙が落ちて跡を残した。
「僕、ま、前の学校でいじめにあってたんだ」
 予想もしない告白に驚いた宗太が、いじめ、とおうむ返しに繰り返すと、実咲は肩をびくりと揺らし、恥ずかしそうに体を小さくした。
「本当に?」
 見た目こそ眼鏡や前髪で地味にしているが、綺麗な顔だし性格も素直で優しい。そんな実咲がいじめられていたとは、にわかに信じられなかった。しかし学校での実咲の様子を思い返せば、説明もつく。
「実咲っていう名前が女みたいだって。最初はそれだけだったんだけど、おかまって言われて。か、顔も! ……気持ち悪いって」
 声はだんだん聞き取りにくくなり、恥じているのか耳が赤い。実咲の頭はどんどん角度を落とし、つむじまでが見えてしまう。
「僕、けっこう昔から、あっきーのファンで。それが周りに知られて、やっぱりおかまだってなって。誰も、話しかけてくれなくなって。なにか言うたびに、わ、笑われて。おなか痛くなって、学校、行けなくなって。だから、だからこっちに逃げてきたんだけど、やっぱり怖くて。友達なんてできなくて。……宗ちゃんだけ、宗ちゃんだけなのに」
 宗太は腰を落として下から実咲の顔を覗きこんだ。泣いていたせいで頬は濡れているが、目が合うと眼鏡の向こうにあるきれいな目が瞬く。できるだけ優しく伝わればいいとゆっくり話しかけた。
「俺は、おかまだなんて思わない。実咲って名前も、実咲に似合っていて、好きだ」
 気にすることない、と微笑む宗太を実咲は子どもみたいな目をして見返している。
 実咲は、根っから地味で目立たない宗太とは違い、本来ならすぐにクラスの人気者になれるような人間だ。こんなに素直で可愛い実咲がいじめられていたなんて信じられない。転校した初日に、誰にも聞こえない自己紹介をした実咲の気持ちを考えたら、可哀そうで仕方がなかった。いじめなんてことがなければ、明るく健やかなままで育つことができれば、宗太とは違うところで生きていた人間だったかもしれないのに。
 今まで、ずっと気付かないふりをしていた。学校から帰っても、誰もいない家に、用意されない食事。同情する視線を向けるクラスメイトに、近所の人からの好奇の目。
 ずっと、一人でも平気だと思っていた。一人のほうが、気楽で、人目を気にしなくていい。でも、本当は宗太だって友達がいなくて寂しかった。同情されて恥ずかしかった。
 実咲がいてくれて、救われたのは自分のほうだ。
「一緒にいてくれて、本当に楽しかった」
 そう言ったら、また実咲の目から涙が溢れだしてきたので苦笑が漏れる。
「別の場所に行っても、実咲のことは絶対忘れない」
「……行かないで」
 ぐちゃぐちゃになりながら、まだ無茶なことを言う実咲が可愛くて、愛しくてしかたがない。まっすぐに慕われるのはくすぐったい。離れたくない。一瞬、そう思ってしまったことに眉を顰める。親の、特に母の決定は、宗太にとっては絶対だった。
「大丈夫」
 宗太は実咲の眼鏡を外し、長い前髪を右手でかきあげ、端正な顔立ちに目を細める。
「大丈夫。眼鏡をとって、髪を切って、顔をあげればいい。そして笑うんだ」
 度数の入っていない眼鏡を、実咲の手にそっと返した。
「きっとみんな、実咲が好きになる」
「……うそ」
「本当だって。すぐに友達ができる」
「…………いらない。宗ちゃんがいないなら、友達なんていらない」
「実咲」
「宗ちゃんしかいないんだ。全部話せたの、宗ちゃんしかいない。あっきーのこと、笑わなかったのも宗ちゃんだけだ」
 わんわんと泣き続ける実咲に困り果て、ふっと、宗太はあることを思いついた。馬鹿らしい思い付きではあったけれど、そのときの宗太には素晴らしい名案にも思えた。
「実咲は、芸能人になればいい」
 唐突にそんなことを言い出す宗太に、実咲は赤く充血した目を瞬かせる。
「芸能人になって、あっきーと友達になれば、もう俺のことなんて必要なくなる」
 実咲には、自分以外にきっと素敵な友達ができるだろう。日野明輝のような、太陽のように眩しい名前が似合う男とだって、仲良くなれる。多分、この一年は友達のいない宗太に神様がくれたプレゼントだ。
「実咲は俺がいなくてもやっていける。でも、母さんには俺が必要なんだ」
 一緒にいようと言ってくれた、きれいで我儘な母親を、放っておくことはできない。
 宗太の言葉に、実咲はぐしゃりと顔を歪めた。涙は止まらず嗚咽はひどくなる。実咲の整った顔が涙や鼻水でめちゃくちゃになった。それでも、宗太は実咲をかわいいと思った。転校を当然として受け入れていたのに、ここにきて初めて揺らいだ。
 そのとき、実咲がきっと顔をあげた。
「……ひどい」
「実咲?」
「宗ちゃんは、僕のことなんかどうでもいいんだ。僕はこんなに嫌なのに! さ、寂しくないんだっ。宗ちゃんがいなくてもやっていけるなんて、そんなことないのに、全然そんなことないのに!」
 突然実咲が怒りだしてしまったことに戸惑う。実咲は綺麗な目を吊り上げて、こぼれおちそうな大きな瞳で睨みつけてきた。
「なんで、僕ばっかり……、僕ばっかり、悲しい」
 そんなわけない。宗太にとっても実咲はただ一人の友達だった。そう思うのに口が動かない。固まっている宗太に、実咲が嘲るように口を歪めた。
「……マザコン」
 ――心臓が、凍った気がした。
「宗ちゃんは、お母さんしか特別じゃないんだ。他の人はどうでもいいんだ。僕が一人になったって平気なんだ。宗ちゃんなんて、嫌いだ。大嫌いだ」
 実咲はそう言い放つと、あっという間にその場から駈け出してしまった。宗太は実咲の小さな後姿を茫然と目で追った。
 マザコン、という言葉と、嫌いだ、という声が耳にこびりついていた。
 本気じゃないことは分かる。ただの子どもの癇癪だ。けれど、宗太はその場から長いこと動くことができなかった。
 夏休みに入るまで宗太は学校に来なくなった。避けられていると思ったらますます怖くなって、家を訪ねることもできなくなり、電話で連絡をとることもためらわれた。
 手紙を書いてみたものの、結局最後までそれを出すことはできなかった。
 ――本当に、嫌われてしまうのが怖かった。
 そして、そのまま宗太は実咲と顔を合わせることなく町を離れた。
 中学三年生の、夏休みに入る直前のことだ。