3.

 もう、俺は終わりなのかな。
 公園のベンチに寝転がっていた宗太は、今週に入って何度繰り返したか知らない言葉を頭の中で呟いた。
 十一月に入った。すっかり夜は更けている。こんなに冷えた夜なのに、宗太が着ているのは着古したパーカーと、薄いウインドブレーカーだけだ。けれど心のほうがずっと寒い。
 気持ちの感覚が鈍く、楽しいとか悲しいとか嬉しいとか寂しいとか、そういうことに気付くのが遅い性質らしいのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。痛みに鈍感な部分をちくちくと針で刺されている。誤魔化すことは容易かったが、あまりにも何度も同じところを突かれればさすがの宗太もつらくなる。
 頭の下に敷いていた求人情報誌を手に取るが、ぐしゃぐしゃになってしまったそれにもはや目を通す気にもなれない。公園の電灯だけで文字を読み取るのは、視力の悪い宗太にとってかなりハードルが高く、そもそもめがねの度数すらちゃんと合っていない。
 動き出さなければいけないのは分かっている。働かなければ生きていけない。このまま黙って死ねるほど自分は強くない。ただ、絶望的にやる気が起きなかった。
 ゆっくりと体を起こす。都心にまぎれたところにある公園だが、小さくて目立たないせいか人の気配はない。あんまり閉じこもっていたら体によくないと思い、外に出てきたはいいものの、気分に変化はみられなかった。
 ヒゲがあまり生えない体質なので救われているが、普通の男だったらとっくに職務質問されているだろう。都会にはどれだけ怖い人がいるのだろうと思っていたのも数年前の話で、今では自分のほうが変質者に近い。
 立ち上がって軽く伸びをした。裾がほつれたジーンズに、汚れたスニーカー。決して不潔なほうではなかったはずなのに、冬だからという理由で二日風呂に入ってない。
 二十五歳。自分と同い年の男なら、立派に会社に勤めていなければ後ろ指をさされる年齢だ。どこで間違ったんだろう、なんて考えることはずいぶん前にやめてしまった。東京には、職にあぶれた人間がごまんといる。
 ――東京。
 中学まで、自分とは縁のない別の国、テレビの向こうだけに存在する楽園、もしくは危ないことがすべて詰まっている悪の巣窟だと思っていた大都会で、宗太は今暮らしている。
 もともと、両親の離婚で母方の実家に身を寄せるはずだった。母の実家はこれまた日本の外れにあるようなど田舎で、山に囲まれ、田んぼと畑しかない村だった。
 中学校の全生徒が三十人しかおらず、中途半端な時期にやってきた地味で面白みのない転校生はあまり歓迎されなかった。村の人の気質が閉鎖的だったのも不運だった。離婚をして出戻った母に世間の目は厳しく、実の両親である宗太の祖父母もいい顔をしなかった。もともと母は若くしての妊娠で家を飛び出したようなものだ。身内からは恥ずかしいと嘆かれ、近隣の人からは影で笑われていた。
 昔は地元から出て行きたくてたまらなかったと、いつか話してくれた母の行動は早く、ネットで恋人を作ると手紙だけ残し、あっという間に家を出て行ってしまった。自分の容姿に自信があり、誰かに頼っていないと生きていけない母が、そういう行動に出ることくらい、宗太が一番分かっているはずだった。母を嘲って、自分のことをかわいそうな目で見る連中と仲良くなろうとも思わない。だが、母が消えて数日後、置いていかれたことへの実感がようやく湧いてきたころに、宗太は風呂場でそっと泣いた。あなたが必要なのだと言ってくれたのは、ほんのわずかな期間だけだった。
 祖父母の家で肩身の狭い思いをしながら、仕方なしに父親へ連絡をしたら、父は父で新たな家庭を構築中だった。
 祖父母の嫌味はうるさかったが、食事も自分の部屋も与えてくれたので文句は言えない。父の援助でなんとか高校までは行くことができたものの、卒業式の次の日には家を飛び出していた。恨みはない。だが、それと同じくらいに未練だってこれっぽっちもなかった。
 東京を選んだのは、ど田舎に住む祖父母への当てつけと、できるだけ遠くにいきたかったこと、それから多くの人間に溢れかえった街なら自分を埋もれさせることが簡単にできるだろうという、浅はかな考えからだ。
 宗太は自動車メーカーの下請会社にどうにかもぐりこんだ。元来付き合い下手であったので、仕事を始めると毎日は会社が用意したアパートから職場までの行き来しかしなくなった。友人も恋人も作らず働いているうちにいつしか年月は過ぎていった。
 なんで生きているんだろうという考えが頭によぎっているうちは、まだ幸せだった。一年前、母から九年ぶりに連絡があるまでは。
 一年。
 ずいぶん昔のことのようなのに、まだ一年だ。人生はどれだけ長いのだろう。目の前は、いつのころからかどこまでも暗い。
 九年も経てば母も年をとる。母は受話器越しにこれまでのことをひたすら謝ってきて、今は私も一人なんだと泣きながら語った。会いたいと言われると嬉しかった。会ってみたら情が湧いた。小さくて弱いこの母親が、まだ自分を必要としてくれていると思ったら涙が出てきた。
 それまで住んでいたのは一人暮らしの男専用のアパートだった。ボーナスもない小さな会社だったが、全く遊んでこなかった宗太にはわずかながら貯金もあったので、それで別のアパートを借り、二人で暮らすことにした。
 仕事を終え、家に帰ったら母が迎えてくれた。家事はほとんど宗太がやった。昔からずっとそうだったので、別になにも思わなかった。せめて二部屋あるところ、そしてユニットバスは絶対に嫌だと言う母の言葉に従い、家賃が少し高いアパートに越したから、満足に貯金はできなかったけれども、気にならなかった。母は新しい服や鞄を欲しがるので、そのぶん宗太の生活費を切り詰めた。
 そんなある日、家に帰ったら、突然母親に土下座された。結婚したい人がいる。けれど、彼には借金がある。彼を救いたい。彼と幸せになりたい。彼と一緒に暮らしたい。どうか、助けてくれ。
 若くして宗太を生んだとはいえ、母はもう四十を過ぎていた。四十を過ぎた女がなにを言っているんだ。恥ずかしいとは思わないのか。働かずに男と会っていたのか。また、――俺を捨てるのか。
 喉まで出かけた言葉はけっきょく母の耳に届くことはなかった。土下座する母に、顔をあげさせ話しかけた。なにを言ったのかは覚えていないのだが、母が礼を言っていたので、罵ったわけではないのだろう。母に暴言を浴びせなかったことについては、なぜか悔しいという気持ちがわずかに残った。
 自分が少しの間だったら生活できるであろう金を手元に残し、残り全額を母に渡した。母は出て行ったきり、連絡をよこしてこない。
 仕方がない、いずれは社員寮も出なければいけなかったのだ、今後結婚を考えるなら引っ越すのも悪い選択ではなかっただろう、そう思いまた仕事だけの日々に戻ったら、今度は会社が潰れ社長が夜逃げした。それが二週間前のことだ。もちろん今月分の給料は支払われていない。ハローワークに掛け込み、もろもろの手続きをしているうちに力が抜けてきた。
 家賃をそろそろ払わないといけない。本当だったら引っ越したいが、そんな金もない。頼れる友人なんていない。
 暗いため息は、宗太の足取りも重くする。
 煙草を買うためにちょうど目に入ったコンビニに寄った。新しいめがねを買う金はないくせに、馬鹿みたいだ。煙草なんて金の無駄だと思っていたのに、味を覚えてからは吸わないとやっていけなくなった。禁煙しようと何度か試みて、失敗して、それを繰り返している。
 ふと、ドアのところにあるバイト募集の張り紙が目に入った。
 結婚願望があるにも関わらず、宗太には今後も恋人ができることはないだろうという予感があった。家族を養う必要もない。だったら別にバイトでもかまわないんじゃないだろうか。人の目を気にしなければきっと自分が食べる分くらいは稼ぐことができる。それで充分なように思える。
 自分にはなにが残されているのかまったく分からない。最後にいつ笑ったかも覚えていない。暗い。まったくもって暗すぎる。
 誰もいない家に帰りたくなくて、ぼんやりとコンビニの中を回った。商品を見ていたら弁当の棚でひときわ目立つポップがあった。忘れられるはずがない。自分はすっかりつまらない男に成長してしまったが、そんなつまらない男の記憶の中でも、彼のことは強く印象に残っている。日野明輝こと「あっきー」だ。
 ふ、と気分が軽くなった。
 なんとなく今朝見た夢のことを思い出した。最後にいつ笑ったかも覚えてないと思っていたけれど、そういえば、と口が緩む。今朝、ちょっとだけ笑った。
 あまりにも懐かしい夢だった。宗太のたった一人の友人の夢を見た。十代の、ほんの短い間だったけれど、菊池実咲と一緒にいた時間が、きっと実咲にとって一番幸せだった。
(なにしてんのかなあ)
 別れてからしばらくは、思い出すのがつらかった。もっと言葉を選べばよかったとか、傷つけてしまったことへの罪悪感とか、いろんな感情が渦巻いたけど、今では素直にいい思い出だったと言える。
 綺麗な顔をめがねと前髪で隠した同級生。最後には嫌われてしまったけれど、あれだけ自分を好いてくれた人は、今後現れないだろう。貴重な体験だった。
 日野明輝の顔を見つめる。どうやら今やっているドラマとのコラボレーション企画で弁当を出したらしい。テレビなんていう文明の利器は宗太の部屋にはないので、芸能情報はとんと入ってこないのだが、十年経った今でも日野明輝だけは見分けがつく。
 あのころは少年だった日野明輝もすっかり大人の男に成長してしまった。彼は今も歌って踊っているのだろうか。そして、今でも実咲は日野明輝のことが好きでいるのだろうか。
 懐かしい思い出につられ弁当に手を伸ばした。もちろん他の弁当に比べると値は張るが、金がないのは変わらないんだと投げやりな気持ちになる。煙草を諦めればいい。
 レジに持っていく途中で、いきなり強い視線を感じた。はっとして辺りを見回すが、店内には宗太のほかに客は若い女性が一人しかいない。
(……気のせいかな)
 そう思って、ドアのほうに目をやったとき、思わず商品を床に落としそうになった。唖然とする宗太の視線を追ったレジの店員のほうが、なぜか「うわっ」と素っ頓狂な声を出した。
 それは異様な光景だった。
 男がガラスドアにへばりつき、じっと宗太を見ていた。いや、睨んでいた。ファーのついたダウンジャケットを羽織り、頭にはニット帽をかぶっている。ご丁寧にサングラスも装着しているため、不審者にしか見えない。
「な、七百円です」
 店員も窓の外が気になるのか、ちらちらと外を横目で窺っている。
「大丈夫ですか? 警察、呼びましょうか」
 いきなり声をかけられ、驚いてレジの店員に目をやる。大学生だろう、コンビニ店員でありながら垢ぬけた様子の男性店員だったが、心配されて単純に感動してしまった。嬉しかった。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。赤の他人を心配してくれる優しい人がいるなら、コンビニでバイトを探してもいいような気さえしてきた。
「だ、大丈夫です。人違いだと思うので」
 裏返った声でどうにかそこまで言いきって会計をすますと、おそるおそるドアのところに足を向けた。近付くにつれ相手がかなり身長のある男だということが分かる。視線は逸らされることなく、宗太に突き刺さっている。
 可もなく不可もなく、特徴といったら眼鏡くらいしかない宗太のことを、これほどまで不躾に見つめてくる人間がいただろうか。深呼吸をして気合をいれる。ドアを開けた勢いで男の横をすり抜けると、全速力で駆けだした。
「あ!」
 後ろから声が聞こえ、思わず体が竦む。振り返らないように無視して走ったのだが、運動不足の体に全力疾走は堪えた。とりあえず距離をとろうと走っていたのだが、後ろから足音がせまりパニックになる。追いかけられることは予想もしていなかった。ゴールが見えない。そのまますぐに手首を掴まれた。
「ひっ」
 情けない声がかみしめた口から漏れる。どうにかして手を振りほどこうとめちゃくちゃに動かすのだが、手首を掴む男の力が強くなるだけで効果がない。弁当の入ったビニール袋が揺れる。きっと唐揚げが大変なことになっているだろう。恐怖に頭が働かない。
 これだったら店員さんに警察を呼んでもらうんだったと心底後悔した。せっかく親切にしてもらったのにもったいない。殺されるかもしれない。最悪の事態が頭をかすめた。大げさかもしれないが、なんてったってここは東京だ。なにがあってもおかしくはない。
 腕を振り回すのをやめどうすればいいのか考えてみるが、荒い呼吸が出てくるだけでいいアイディアはさっぱり浮かんでこない。荒んだ生活のせいで、自分は変質者側に回ったものと思っていたが、さすが都会だ。いくらでもホンモノはいる。
「……痛い」
 涙声だった。なんの抵抗にもなりえないであろう弱者の呟きだったが、男は慌てて手を離した。え? と思うと同時に両肩を掴まれぐっと体の向きを変えられる。その拍子に、ビニールがぐしゃりと音を立てて落ちた。
 宗太もそこまで背が低いわけではないのだが、頭一つ分男のほうが高い。見下ろされ、日ごろの食生活のせいですっかり痩せてしまった宗太とでは体格の差が歴然としている。殴られることを予想して目を瞑ったとき、「ごめん!」と、予想の斜め上をいく言葉が飛び込んできた。
 ぽかんと顔をあげる。サングラスをかけた変質者が焦ったように口を動かしているのが目に入り、ぎょっとした。
「え? ええ?」
「ごめん、つい! 僕もびっくりして、君が、君があんまり……」
 驚いて目を瞬かせる宗太が逃げないと踏んだのか(実際には動けなかったのだが)、男は肩を掴んだ手の力を緩め、片手で長ったらしい宗太の前髪をあげた。体温の高い男の手にいきなり顔を触られ体が震えた。宗太の顔を見て、男は息をのむ。
「やっぱり」そう呟く声が弾んでいる。
「一目見てそうじゃないかと思ったんだ。信じられない! まさかこんなところで会えるなんて。夢みたいだ。本当に、本当に運命としか思えない!」
「あ、あの」
 一人感激する男にドン引きして宗太が逃げ腰になっていると、男は顔を緩めながらサングラスを外した。そして目の上のところまでかぶっていたニット帽をとり、首をふって色素の薄い髪をぱさぱさと揺らす。仕上げに目を丸くしている宗太の顔を覗きこんで、満足そうににっこりと笑った。
(うわあ)
 ――王子様だ。
 二十五にして、思いがけず恥ずかしいワードを口に出すところだった。
 きれいなアーモンド形の瞳の色は淡く、目尻を下げているのがひどく優しげだ。全体的に線が細い気がするけれど、中性的というわけでもない。鼻筋は通っていて、唇には柔らかな笑みを浮かべている。
 ニット帽に収められていた髪は猫っ毛のようだった。男らしいが、甘さの残る顔立ちは、まさに「王子」そのものだ。サングラスで目が隠れていても、男が整った顔をしていることは察していたが、これほどとは思わなかった。身長も高く、足が恐ろしく長い。
 こんな美形がなんの用だ、といっそう警戒を強めた宗太の気持ちなど知らず、男は目を細めてうっとりと宗太を見つめている。イケメンは怖い。同じ人間じゃないような気がする。遠くにいるぶんにはいいけれど、こんなに近くにいられたらたまったものじゃない。
 いやだ、どうしよう、早く逃げたい。
 頭の中でぐるぐるとそんなことを思っていたら、なんの前触れもなく抱きしめられた。とっさに辺りを窺うと怪しげにこちらを見ている人が目に入り、かっと顔が熱くなった。
「離っ」
「宗ちゃん、会いたかった!」
(……………………は?)
 間抜けな沈黙が落ちた。その間、宗太はずっと抱きつかれていたけれど、頭の中で次々浮かぶ疑問符にそれどころではなくなった。
(宗ちゃん?)
 懐かしい呼び方だった。けれど宗太の記憶の中で、そんなふうに宗太のことを呼んでいたのは一人だけしかいない。ついさっきまで思い描いていた人物、――実咲実咲だけだ。
 まさか。いや、でも。
 まだくっついている男の体を両腕で身体を引き離し、まじまじと顔を覗きこんでみる。まごうことなき爽やかイケメンだ。
 正直、顔を見ても全く思い出のそれと重ならない。宗太が知っているのは、前髪とめがねに隠れた、女の子のように可愛らしくも整った顔立ちだ。
「……み、さ、き?」
 宗太が名前を呼ぶと、目の前の男の顔が、花が咲いたように鮮やかにほころんだ。くらりと足元がふらつく。
「えっ、え、……ええ?」
「わー、驚いてるー」
 甘ったれた口調が昔の記憶を無理やり引きずり出していく。いくら美形でも、語尾が延びれば馬鹿に見えるらしい。そうだ、これは
「本物……」
「そうだよ! ひどいなあ、分からなかったの?」
 にこにこと笑って、もう一度抱きつかれそうになるのを慌てて避けた。嫌だったのではなく(それもあったが)、二日風呂に入っていなかったことを思い出したからだ。自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
 宗太が避けたことなんて、まるで気にしてない様子で、実咲は再会の喜びを体を使って表現している。
「まさか! こんなとこで! 東京で! 宗ちゃんに会えるなんて」
 それはこっちのセリフだ。偶然にしてもほどがある。泣いてしまいそうだった。でもきっとこれは嬉しいからじゃない。
「み、実咲も……、こっちに越してきたの?」
 声が震えないよう気をつけた。
「うん。もともと親はこっちだったからね。高校からは東京に戻ったんだ」
 そういえば実咲は東京からの転校生だった。そんな基本的なことを思い出す。
 そしてあの、別れの場面のことも。宗太は実咲に前髪を切って眼鏡をとって笑えと言って、実咲は怒って、宗太を嫌いだと言ったのだ。
『マザコン』
 顔があげられない。実咲のことは大切な友人だと思っている。嘘じゃない。でも再会を心から喜べない自分がいる。そのことが太陽のように笑う実咲を前に罪悪感をひどくした。
 実咲のことは綺麗な思い出で終わっていてほしかった。マザコンと言われ、嫌いだと泣かれたことも、今の宗太には青春時代の綺麗な思い出だった。そして、実咲の中にも、もし宗太との思い出が残っているなら、それは綺麗なままであってほしかった。あのときの自分は、少なくともこんなにみじめじゃなかった。
 上機嫌のまま話している実咲の声を遮る。
「ごめん、……俺、帰る」
 実咲の目を見ることができずに俯き、視界に入ってきたビニール袋を拾い上げる。それすらもあさましく思え、自分の性格の悪さを自覚して落ち込んだ。
 実咲はなかなか返事をしない。居心地の悪さに潰されそうになったとき、くすりと笑う気配がした。視線をあげると実咲はおかしそうに口に手をあてて、間違いなく笑っている。
「え?」
 全く笑う場面じゃないはずなのだが、実咲には不機嫌さのかけらもない。じっと見つめていると、実咲がますます笑みを深くした。
「……なに」
「え? ふふ、いや、宗ちゃんを見下ろすのがなんか新鮮で」
 ふしぎー、と語尾を伸ばし、実咲が宗太の痩せた頬の肉をふに、とつまんだ。
 うわあ、と目を丸くする。王子だ。これは王子様だ。実咲は本当に王子様になってしまったのだ。王子だと思えば、人の話をちっとも聞いていないことに納得できる気もする。
「あの、俺、用事が」
「そうだ、宗ちゃん」
(聞け!)
 用事があるという宗太の言い分は少しも実咲の耳には届いていない。こんなやつだったか? と思い返すが確かにこんなやつだった。姿形だけは立派に成長しているが、くるくると変わる表情は素直で子どもっぽい。と、急に実咲の顔が険しくなった。
「これは真面目な話だよ」
 ぐいっと顔を近付けられ思わず息を呑む。
「宗ちゃんって、さっきの人が好きなの?」
 真剣な目で、なにを言うかと思えば、さっぱり理解できない内容だった。首をひねりたいのに、あまりに近くに顔があるから動くこともできない。
「……さっき?」
「さっきの! コンビニの!」
 コンビニ……? コンビニの話など持ち出されると思っておらず、慌てて記憶の中を探ってみる。
 店内にいた客は宗太のほかに女性ひとりだったはずだ。まさかその人のことを言っているのだろうか。たまたま居合わせただけで話してもいないのに? そもそも、どういう意味で「好き」という言葉を使っているのか。
「好きって、どういう意味……」
「ごまかさないで! 好きは好きだよ! 恋してるのかって意味!」
「こ、恋」
 恋しているのか、という意味での質問なら、余計に意味が分からなくなる。あの女の人を?どこからどう見ても親しくはなかったはずだが、しかし思いつくのはその人だけだ。
 実咲は「つきあっているの?」とは聞いていない。「好きなの?」と聞いたのだ。しかも「恋しているのか?」という意味で。でも、宗太は、一瞬ちらりと視界の隅に見えたくらいの女の人のことなんて、顔も覚えていない。
(俺はストーカーか?)
「あのコンビニは……今日初めて行ったところで、あの人に会ったのも初めてで……」
 会ったというか、すれ違ったというか。
「本当に? でも楽しそうに喋ってたね」
「喋ってたあ?」
 じゃああの女の人じゃない。でも、コンビニにいた客はあの人だけだ。客じゃないのか。客じゃない? 一人の顔を思い浮かべる。女の人と同じように思い出せないかと思ったが、意外にも、心配そうに眉を下げていた顔を頭の中にはっきりと描くことができた。
「……ごめん、実咲」
「え! やっぱり好きなの?」
「じゃなくて! 実咲の言ってる人って、……………………レジにいた店員?」
 変質者(実咲のことだが)に目をつけられた宗太に、わざわざ声をかけてくれた。確かに喋った。だが、あれは男だ。男っぽく見えるが実は女性だった、というオチもあるはずなく、声も低かったし、体つきもしっかりしていたし、どこからどう見ても男だった。
 まさか、と思いながらもおそるおそる口を開いた宗太に、実咲はきょとんとした顔で見返してくる。やっぱり考えすぎか、とほっとしたところで「他に誰がいるの?」と実咲が眉を顰めた。
「えっ」
 なにを言っていいのか分からず固まる宗太に対して、実咲の顔がみるみるうちに悲しげに歪んでいく。憂いを帯びた顔すら男前だ。
「好きなんだ……」
「いや! え? いやいやいやいや、好きじゃない! え? 好きって? だって、初めて会った人だし、声をかけてくれただけだし」
「はあ? なんだあいつ。なんで声なんかかけるのさ。駄目だよ、宗ちゃん、もっと警戒しなくちゃ。東京は怖いところだよ」
 お前が怪しいから声をかけてくれたんだ。実咲の台詞からは、大切なところが抜け落ちている気がする。
「あの、……実咲?」
「なに? もしかして、あいつになんかされた?」
「されてないされてない! っていうか、あの人……男だけど?」
 小声で諭すように言ってみるが、実咲は綺麗な瞳をぱちりと瞬かせただけだった。宗太の言っている意味が分からなかったのだろうか。落ち着かないでいる宗太をじっと観察するように見ていた実咲が、ふいににっこりと笑った。固まっていると、手を掴まれる。
「おっけー! 分かった!」
「えっ、み、実咲?」
「うん、あいつとのことは誤解だって分かった。ごめんね、勘違いしちゃった。そんなことはもういいから、せっかく会えたんだし、ご飯でも食べよう」
 だから聞けよ人の話を。ぐったりしながら、もう一度宗太は繰り返す。
「俺、今日は帰らないと」
「どうしても駄目? 少しも時間取れない? だって、こんな偶然もう二度とないかもしれないんだよ。それとも、宗ちゃんは僕に会いたくなかった?」
 寂しげに細められた目にうろたえる。しっとりと濡れた瞳が捨てられた子犬のようだ。体は大きいくせにこれはずるい。先ほどから宗太のまわりにまとわりついていた罪悪感がずっしりと肩に圧し掛かる。
 きっと、自分は昔の友人にひどいことをしている。一緒にいるとみじめだからという自分勝手な理由で、大切な友人を突き放そうとしている。けれど正直、優雅にご飯を食べに行けるような余裕はない。それに、と手にしているビニール袋に目を落とす。
「……会えて、嬉しくないわけない」
 言った後で、宗太はますます後ろ暗い気持ちになる。それでも実咲は顔を輝かせた。
「本当?」
「当たり前だろ」
「じゃあ行こう。少しだけだから。おいしいところ、知ってるんだ」
 悪気のない実咲の笑顔が胃に痛かった。
「ごめん」
 今まで人の話なんてちっとも聞いてなかったくせに、宗太の蚊の鳴くような声での謝罪はちゃんと耳に届いたようだった。不思議そうに首を傾げる仕草は幼い。
「俺、外食できるほどお金持ってなくて。それに、もうさっき、ご飯買っちゃったから」
「ああ、そんなこと」
 恥ずかしさで真っ赤になりながら告げたのに、さらりとした実咲の返事は軽く、なんでもないことのように代案を出してくる。
「ごめんね、気付かなくて。じゃあうちにおいでよ。お弁当は、うちで食べたらいいし」
 実咲の提案にぽかんと口を開けた。体から力が抜けていく。きっと、安心したのだと思う。実咲に「奢る」なんて言われたら車の前に飛び出せる自信があった。
「ね、いいでしょ」
「……ここから、家、近いのか」
「まあまあかな。車だとすぐだよ」
 実咲のゆっくりとした喋り方が、宗太の時間を巻き戻していく。
「行こ?」
 握られた手のひらは温かかった。その温かさにつられ、宗太はこくりと頷いた。