4.

 実咲が住んでいるのは都心のマンションだった。外から背の高いマンションを見上げ、ますます自分がみじめになった。同い年で、こんなにいいところに住んでいる。しかも車も高そうだった。同い年でどれだけ稼いでいるのか。汚い仕事でもしているんじゃないか、という意地悪な考えが頭をよぎったが、顔には出さなかった。
 実咲はひたすらはしゃいでいた。なぜか宗太の荷物である弁当を持ってくれていて、空いたほうの手でぐいぐいと引っ張っていく。
 セキュリティもしっかりしている作りのマンションは、エントランスも広くて美しく、宗太はついてきたことをだんだん後悔しはじめていた。完全に場違いだ。部屋に入り、すすめられるまま酒を飲んだのは、そんな思いをごまかすためでもあったように思う。
 普段、あまり酒は飲まないという宗太に、実咲が出してくれたのは甘くて飲みやすいカクテルだった。俺は女子か、と心の中でつっこんだが、飲んでみるとジュースみたいだった。赤ワイン、ほかにビールも焼酎も日本酒もあるというから、よっぽどな酒好きなのだろうと判断し、実際に聞いてみたのだが実咲は「別に」と首を横に振った。
「普通に飲むくらい」
「じゃあなんでこんなにいろいろあるんだ」
「えー、なんでだろう?」
 ほとんどもらいものかな、となんでもないように実咲は言ったが、それでさえも宗太は悲しくなった。きっと酒のせいで過敏になっているのだろう。いろんな酒をもらえるほどに、実咲には友人が増えたのだ。あの頃は、どちらもお互いしか友達がいなかったのに。
 酒なんてほとんど飲んだことがなかったので、酔っぱらうこと自体が初めてだった宗太は、しばらくは自分の体の異変に気付かなかった。だが確実に体は重くなってきているし、頭はぐらぐらと揺れている。
 周りの酔っぱらいを横目に見ながら、なぜ皆がそんなに酒を好むのか理解ができなかったが、今ならなんとなくわかる。アルコールの力は偉大だ。いつの間にか実咲への緊張がなくなってきた。実咲がとんでもなく美形だったことも、酒が入れば関係なくなる。王子様へと変貌をとげた実咲でも、酔った宗太の目に映るのは十年前の小さな実咲だった。
 口は滑らかになり、問われるがまま答えがすべりおちていく。理性という気持ちを抑えつけるものがなくなると、崖っぷちに立たされている宗太でも、楽しいと思えば簡単に笑えた。
 意外にも酒の席で実咲は聞き上手だった。呂律がまわって分かりにくくなっているだろう宗太の言葉を、にこにこしながら正確に聞きとって、絶妙なタイミングで相槌を打つ。実咲から繰り出される質問には終わりがなくて、ひとつ答えたらまた別のことを新しく聞かれた。宗太が答えを迷っていると、あれこれヒントをくれて、どんなにつまらない話でもおおげさに反応してくれた。そのせいで、全部話してしまった気がする。
 引っ越したとたんに母が出て行ってしまったこと、祖父母の家で一人気まずかったこと、友達なんて全然できなかったこと、東京に来てからの母との再会、そして今のどうしようもない現実。
「お母さんからは連絡ないの?」
「ない。きっと、新しい人と、うまくいってるんだと思う。……いいんだ、もう、あの人のことは」
 母親について、これまであったことの事実以外のことを述べるのは怖い。
 宗太は実咲にマザコンだと言われて以来、両親や家庭のことについての話題をますます避けるようになっていた。普通じゃない家庭に育った自分だと、どの話が他人を不快にさせるのか分からない。
 それなのに、実咲は母親の話をさせたがる。のせられて、ついポロッと口から出てしまって、少し後悔する。暗い話に場が重くなることはないが、母のことを口にすると心が冷えた。
 つまみがわりは宗太が買った弁当だ。ドラマとのコラボレーションだけあって容器は豪華だが、包みをはがせば唐揚げのほかに数種類のおかずが入っただけの弁当でしかなくなった。ぽつりぽつりと話しながら、思い出したように箸を動かす。
 はがしたビニール袋には、「あっきー」の笑顔が残っている。
「もう、怒ってないのか」
 そんなことを聞いたのは、「あっきー」の弁当を食べていたからかもしれない。酔っていたからかもしれない。記憶は巻き戻されていき、現実と夢が曖昧になっている。あのころ、実咲と宗太を繋げていたのは、この輝くアイドルだった。
 唐突な問いかけに、あくまでも穏やかに実咲は「なにを?」と首を傾げた。
「引っ越すって言ったら、怒ったじゃないか。……嫌いって、言った。マザコンって」
 寂しかった、と呟いた瞬間、涙が出てきた。ぽたぽたと、床に滴が落ちる。
 マザコンと言ったくせに、母の話を聞きたがる。俺は嫌なのに。母親の話なんかしたくないのに。実咲が聞くから話してしまう。
 実咲も、本当は心の中でまた自分のことをマザコンだと思ってるんじゃないか。馬鹿だと嗤っているんじゃないか。そういうふうには見えないから、全てを話してしまったのだけれど、話し終えると後悔ばかりが残っていく。
 涙を隠すようにテーブルに突っ伏すると、実咲が慌てたように体を寄せて頭を撫でてきた。大きな手だ。頭の中に浮かぶ小さな実咲とその手が不釣り合いだった。
「ごめんね。ずっと、気にしてたの? 傷ついたよね。本当にごめん。あの後、すごく後悔したんだ。夏休みが終わったら、宗ちゃんがいなくて。もう戻ってこないんだ、会えないんだって思ったら、悲しかった。仲直りすればよかったって思ってた。ひどいこと言った。ごめんね」
 何度も何度も、あやすように謝られてほっとする。子どものように髪をすいてもらうのが気持ちよくて目を細めていたら、頭上で「でも」と実咲が続けた。
「寂しいのは、僕だけかと思ってた。宗ちゃんが、僕と離れて寂しいって思っててくれたなんて、信じられない」
 実咲こそ、信じられないことを言う。
 こんなにかっこよくなって、いいところに住んで、きらきらしているのに。
 寂しくてたまらなかったのは宗太のほうだ。嫌われたのだと思った。寂しくて、寂しくて、けれど、日々の中でいつの間にか、寂しいと感じる暇もなくなった。気持ちは昇華され、綺麗な思い出に変わった。そうすることで救われていた。もう一度たぐりよせることができるなんて、宗太も信じられなかった。
 顔を上げると、弱り切った実咲と目が合う。
「俺のこと、嫌いじゃないのか」
 子どものように問いかけると、「当たり前だよ」と、怒ったような声で返された。
「本当?」
「本当」
「……本当に?」
「本当に本当! 嫌いになんかならないし、今日も宗ちゃんに会えてすごく嬉しいよ。じゃなかったら家まで呼ばない。声なんてかけない」
 じわ、とまた涙腺が緩む。
 潤んだ目を隠すように、膝を抱えて顔を埋めた。
「ねえ、宗ちゃん。ごめんってば。本当に、嫌いなんかじゃないよ」
 甘ったれた声が近い。人の体温が温かい。ゆっくりと、時間が巻き戻されていく。
 地味で、目立たない宗太に神様がくれた、たった一人の友達だ。母に振り回されるばかりだった、短くも長い人生で、そこだけが温かくて眩しい。こわごわと頭を撫でられるたびに、昔の楽しかった思い出が蘇る。
 ふ、と口元が緩んだ。
 これまでは、実咲といた中学生のときの一年間が一番幸せだったのに、今、あの記憶を抜いたんじゃないかと思えてくる。
 嫌な別れ方をしたけれど、それが今、清算された。
 実咲に嫌われてなかった。それどころか、実咲はひどいことを言ってごめんと謝ってくれた。嬉しくて涙が出るなんて、こんな気持ちになるのは本当に久しぶりだ。
「嫌われてなくて、よかった」
 しみじみと呟いて、今度は急に悲しくなった。
 きっと、この夢みたいな時間はすぐに終わる。終わったら、嫌な現実が待っている。
 アルコールが入って、ふわふわして、気持ちよくて、傍には実咲がいて、どうしてこれで追われないんだろう。このまま全てを終わらせることができたらどんなに幸せだろう。
 そう思ったら、声に出したつもりはないのに、自然に口が動いていた。
「……もう、死にたいな」
 あーあ、言っちゃった、と、他人事のように考えた。
 絶対に口にしてこなかった言葉なのに、言ってしまうと重みがなかった。今、この時間が幸せだからかもしれない。幸せだと思える時間なんて、もうないような気がしていた。
 きっと明日からは、また、しんどくて、辛い。幸せな時間がまた思い出になる。それが寂しかった。
 楽しいことなんてなにもないのに、どうして生きているんだろう。このまま、ただ生きていく。悪いことじゃない。誰にも迷惑はかけていない。それでも、宗太の考える未来は暗くて、不安で、綺麗な思い出だけが記憶の中で輝いていた。死にたいなんて、言葉にしたら終わりだと、自分でも分かっていた。だけど今、そんな宗太の甘えた言葉を聞いているのは実咲だけで、その心地よさが油断を生んだ。
 髪を撫でていた実咲の手が止まる。そして顎に手をそえられ、突っ伏していた頭をゆっくりとあげさせられた。
「宗ちゃん」
 思いのほか、真摯な目とぶつかり戸惑った。王子様みたいでくらくらする、なんてことを、くらくらした頭で考えた。
「駄目だよ。そんなこと、言わないで」
 実咲の言葉が、優しい。そのことに涙が出そうになる。
(ああ、そうか)
 わざわざ実咲の前で「死にたい」なんて言ったのは、実咲に慰めてほしかったからなのかもしれない。
 実咲に、必要だよ、と言われているようで、そんな実咲の甘い声にとろりと目を細めたら、唇に湿ったものが当たった。
「ん?」
 息がかかるほど近くにある顔に、目を瞬かせる。
「み、さ……き?」
 驚いて目を見開く宗太に、ふ、と実咲が笑った気がした。けれど、確かめる前にまた唇が重なったので、本当に笑っていたのかは分からない。
 ふっくらとした唇の温い温度が伝わってくる。がちがちに固まった宗太の唇を、実咲が猫のようにぺろりと舐めた。ぬめった舌先でつつかれ、下唇を甘噛みされると。ぶるりと体が震える。
 なにが起こっているのか分からない。
 息苦しさに負けて口を開くと、待っていたかのように舌を差しこまれる。頭が回らない。息ができない。体が熱い。実咲の舌が、逃げる宗太のそれを絡め取る。
「ん、ふっ」
 力のない手で胸を叩いてみたが、まるで効果はなかった。
 敏感なところを探るよう、まるで生き物のように舌が動く。ちゅく、ちゅく、と聞こえる水っぽい音が恥ずかしい。飲み込めない唾液が口を伝った。
 唇が離れ、肩で息をする宗太に実咲が「初めて?」と囁く。その言葉に咄嗟に首を横に振っていたが、つまらない見栄だった。キスなんかしたことない。こんなに、感じるなんて知らない。
 手の甲で口を抑え、乱れた息を整えようとするのに、うまくいかない。できるだけその場から離れようと後ずさるも、気付いた宗太にすぐに距離を詰められた。
 実咲は小さく息を漏らし、宗太の首元に顔を埋めてきた。鎖骨のあたりを舐められて体が震える。
「や、やめ」
 パニックになりながらも、とにかく実咲から離れようとするが、掴まえられて、キスをされる。角度を変えながら舌を吸われ、呼吸さえもままならなかった。軽く吸われたと思ったら、次はねっとりと舌を絡めてくる。
 ペースについていけずに、呼吸をするので精いっぱいだった。
 そんな宗太を弄ぶように、実咲の手が下半身に伸び、ジーンズの布越しに、宗太の性器をつつつ、と撫でる。
「あっ」
 初めてのキスで敏感になっていた体に与えられた刺激に、自分でも驚くほどの、甘ったるい声が出る。思わず口を閉じ手で押さえるが、体が熱くなるのは止められない。
「気持ちいいの?」
 耳元で囁かれ、勃起していることを確認するようにゆっくりと擦られた。張り詰める熱をジーンズ越しに触られるのが苦しい。それを言うこともできずにいやいやと首を振っていると、ファスナーが下げられる。
 実咲の白い手が下着から勃ち上がったものをゆっくりと取り出す。
 実咲の大きな手が、淡い色をした貧相な自分の性器を掴んでいる。信じられない光景に思わず目をつぶった。びくびくと震える体は言うことを聞かなくて、目の前の実咲の身体にしがみつく。
「いやだ、うっ、や、やめ」
「大丈夫、痛いことはなにもないからね」
 聞き分けのない子どもを諭すような言い方にますます羞恥が増す。男が男を触っている。男が男に触られて勃起している。こんなの、おかしい。おかしいと思うのに、実咲は止めてくれないし、宗太も止めさせる方法を知らない。
「ひゃ、ん」
 先端を弄られたと同時に、左耳に舌が入れられた。
「耳弱いんだね」
 感じることが怖くて、恥ずかしくて涙が出てくる。
「も、やだ」
 首を振って抵抗しようとしても、力は入らない。ぐりぐりと弄られるそこが熱くなるだけだ。
「やだ? でも、すごいぬるぬるだよ」
「やだ、やだ、やだ、」
 どうしてこんなことをするのか。頭がついていかなくて、ついにはべそをかきだした宗太をあやすように、実咲はこめかみや目元にキスをする。
「気持ちいいよね。固くなってるもん。いやなら、こうならないよ」
 そんなこと分かってる。馬鹿にしやがって。
「怖くないよ。宗ちゃん、かわいい」
 ちゅ、ちゅ、と軽い音が響く。首を振っても、実咲はキスをやめないし、手も宗太の熱を高めていく。
「俺、風呂に、ふ、二日も風呂に、入ってなくて、あ、あっ、だから、」
 汚い。
 息も絶え絶えに、妙に冷静なことを口走った。いや、こんなときに拒絶以外のことを口にするなんて、冷静じゃなかった証拠なのかもしれない。
「あんまり気にならないけど」
 そんなわけないのに、あろうことか実咲は宗太の頭に顔を埋めるようにして匂いを嗅ぐ。その間も、手は宗太の性器を扱いおり、体が追い上げられていく。
「あ、あ、んっ。き、汚いから、さわるなっ」
 今の状態についていけなくて、情けなくて、でも気持ちよくて、いろんな感情がごちゃまぜになり、ボロボロと泣く宗太の頬を撫でながら、実咲はにっこりと笑った。
「かわいい」
 ――最悪だ。
 信じられない。泣いてるのに。やめろと言って泣いている昔の友達をこんな目に合わせるなんて。なんでそんなにいい笑顔なんだ、馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿。
「ばか」
 ぐず、と鼻をならした宗太に目を細め、実咲が自分のを取り出す。
 昔のイメージで止まっている実咲の身体にくっついたそれは、実咲のものよりはるかに立派なもので、思わずパチ、と瞬いた。
「……大きい」
 ぽつん、と漏らした宗太の言葉で、意外にも少し顔を赤くした実咲は、悪戯っ子のように口角を上げた。ぐいっと腰を寄せ、自分のモノを宗太の性器にくっつけてくる。熱く、ぬめっとした感覚に身を引こうにも、ガッチリと腰に手を回されて動けない。
「分かる?」
 どくどくと脈打つそれがぴたりと宗太のものにくっつけられ、実咲の手によって包み込まれる。
「あ、熱い」
「僕も」
 言いながら、実咲は宗太の手を掴まえ、一緒に触れさせる。
 熱いものが、より熱くなる。
 だらしなくあいた口をふさがれた。噛みつくようなキスで、表情からは読みとれなかった実咲の興奮が伝わってくる。
「やだ、み、実咲っ」
「大丈夫」
 巧みに宗太を追い上げていく実咲の手の動きが早くなっていく。乱れる息がどちらのものかも分からず、肩口に額をつけて、汗のにおいを吸いこんだ。
 熱を吐きだしたのはほぼ同時だった。
 白くなる視界の中で、実咲の顔が近付いてきて、キスをされた。
 宗太が覚えているのは、ここまだだ。


 起きてからしばらくの間、自分が目を覚ましていることに気がつかなかった。
 ぼやけた視界に映る部屋は見慣れないものばかり。低くてしみのついた天井もなければ、畳のにおいもしない。クッションのやわらかなベッドは宗太には覚えのないもので、清潔な手触りの心地よさが逆に居心地を悪くした。
「……痛い」
 頭痛がする。なんでこんなに痛いんだろう、と考えているうちに原因を思いついた。酒だ。昨日、酒を飲んだ。なんで酒を飲んだかというと、中学のときの同級生に再会したからだ。菊池実咲。実咲だ。実咲の家で飲んだ。あっきーの弁当も食べた。
 寝返りを打ったら頭痛がひどくなった。そして腰のところにどこか懐かしい違和感があるのに気付く。痛いわけじゃない。それどころか妙にすっきりしている。すっきりしているのに、疲れている。
(腰?)
 とたんに、昨日の記憶がおぼろげながらも次々と頭に浮かんできた。王子様みたいに成長した実咲の顔。キスされて、触られて、そしてどうした?
 実咲の姿はない。けれど、物音がするので、外に出かけたわけではないのだろう。ここから動くことは危険だと、頭の中にいる誰かが言っている。実咲を呼ぶこともやめとけ。できるだけ顔を合わせないようにして、すばやくマンションを出たほうがいい。
 頭の中にいる誰かが大声で、そう教えてくれているのに、体はちっとも動かない。
「宗ちゃーん、起きた?」
「わーっ」
 ひょいと顔を出した実咲に心底驚く。こんなに大きな声を出したのは何年ぶりだろう。胸を抑え固まる宗太に、実咲も目を瞬かせた。その悪気のない顔が憎い。
「ど、どうしたの? なにがあった?」
「な、な、なにがって、お、お前。お前っ!」
 パニックになって叫ぶ宗太を心配そうに見つめながら、慌てて実咲が近寄ってくる。逃げるように体を起こし壁際に寄せるが、やはり下半身になにか違和感があった。
「そうちゃ」
「さわんなっ」
 昨日はあれだけ難しかった拒絶が、今回はしっかり決まった。でも、全てをなされてしまったあとでは遅すぎる。頭にはまがまがしい映像が残っている。
「なにした……?」
 覚えている。覚えているが、思い出したくない。
 あれは夢だったのだと思い込むにも、映像がリアルで難しい。
「なにって、宗ちゃんのを抜いただけだよ」
 途中で寝ちゃったし、とケロッと言ってのける実咲の言葉を、「わーっ」と大きい声で遮る。耳をふさいでも、顔が熱い。なにが寝ちゃったしだ。そもそも寝たんじゃない。きっと気絶したんだ。あまりにも現実にひどいことが起こったから、気を失ったんだ。
 これまでの人生、いいことなんかひとつもないと思っていたが、気絶した経験なんかない。まさか、「今日が生きていて一番幸せな日かもしれない」と思った日が、気絶記念日になるなんて。
 ベッドサイドに腰を下ろした実咲が、顔を覗きこんでくる。カチン、と固まってしまった宗太の頭を、実咲が撫でる。
 心配しているのか、慰めているのか。昨日も確か、宗太が泣いて同じことをしてもらったが、そのときと今では状況が違う。なにしろ、今、宗太が混乱している原因の全ては実咲にあるからだ。
「大丈夫、他はなにもしてないから。そうだ、水飲む? 宗ちゃん、お酒弱いんだね。あとであったかいものも用意しとく。朝ごはんもできてるよ」
 確かに実咲はペットボトルのミネラルウォーターを持っていた。奪うようにして受け取り、口に含む。思っていたよりも喉が渇いていたのか、一気に半分も飲んでしまった。その間中、視線を感じて落ち着かなかった。
「平気そうでよかった。起きれる?」
「……やだ」
「もう少し寝る? いいよ、どっちでも」
 そう言って唇を近付けようとした実咲に、慌てて身を引く。
 その途端悲しそうに眉を下げる実咲に、まるでこっちのほうが悪いことをした気になる。
「なんで、そんなことするんだ」
 宗太にしてみたら当然の疑問であるのに、実咲は綺麗な瞳をぱちりと瞬かせ、そしてにっこりと笑った。
「お腹すいたら起きといで」
 質問には答えず、宗太の隙をつき、唇にキスをする。さきほどの悲しい顔は演技だったのかと疑うほどの鮮やかさだ。
「実咲っ」
 あくまでも爽やかに、実咲は腰を上げると部屋から出て行ってしまった。後姿を茫然と見送る。全くついていけない。ぽすん、と音を立てて再び横になる。
(抜いた? なんで?)
 しかもさりげなくキスまで。するか普通そんなの。しないだろ。
 実咲はいったいなにを言っているのか。
 抜いただけってなんだ、だけって。なんでもないことのように軽い言い方だったが、大ごとだ。
 そうだ、昨夜、自分はとてつもなく恥かしい目にあったのだ。やらしいことをしたのだ。それなのに、なんだってああも実咲は普通なのか。
 のそのそと起き上がり、改めて自分の体を見てみる。トレーナーとハーフパンツは宗太のサイズにあわずだぼっとしている。きっと実咲が貸してくれたのだ。はっとして、宗太はおそるおそるズボンのゴムを引っ張り、中を覗いてみた。案の定、なにも履いていない。
 頭を抱えて、その場にしゃがみこむ。これ以上ないくらいに顔は赤かったと思う。今だったら恥ずかしさで死ねる。昨日散々見られたし、触られたし、扱かれたわけだが、こうして明るい場所で思い返すとやはり、異常事態だった。
 ひどくショックだ。
 たぶん、あの幼い実咲から、自分は抜け出せていない。
 あっきーを崇拝し、暇さえあればアイドルについて語るような、性のにおいをいっさいさせなかった実咲が、久しぶりに(それなりに運命的に)再会した友達に、あんな暴挙に出るなんて。
 実咲と顔を合わせたくなかったが、寝室を出ないことには玄関にもたどりつけない。
 意を決して起き上がり、不安定な足取りで部屋を出る。そろそろと歩いてみるが、台所のカウンターからこちらは丸見えで、食事の準備をしていたらしい実咲にすぐに気付かれた。
 視線を感じるものの、まともに顔を見ることができない。顔が熱くなるのを止めることができずに、咄嗟に俯いた。
「あ、ご飯食べる?」
 宗太は恥ずかしさで死にそうなのに、腹の立つことに実咲の声ははいたって呑気だ。
「…………帰る」
 なるべく、「怒ってるんだぞ」という気持ちを込めて、むすっと答える。
 こんなに普通に接されて、混乱して戸惑っている宗太が馬鹿みたいだ。だが、実咲は、なぜ宗太が不機嫌なのか分からないようだった。
「え? なんで?」
(なんでじゃねえよ)
 答えずに玄関へ向かおうとする宗太の手を実咲が掴む。予想外に強い力で引っ張られて、腹が立った。
 昨日からそうだ。コンビニで見つかってからというもの、調子を狂わされっぱなしで、苛々する。全てが実咲のペースで進んでいっている。
「宗ちゃん? 怒ってるの?」
 そうやって、捨てられた犬みたいな目をするから、まるで自分が悪いことをしたみたいな気がしてくるのだ。怒ってるに決まってる。変なことをするな、ふざけるな、と言っていい権利は自分にあるはずなのに、なにも言えなくなる。
「……別に」
「ごめんね。でもその恰好じゃ帰れないでしょ。大丈夫、家までちゃんと送っていくし、服も乾燥させてるから」
 手首を掴まれ、ゆっくり引っ張られる。誘導させられるまま足を動かすと、あからさまに実咲はほっとした顔をした。はにかんだ笑みは、昔の面影があり、少し可愛かった。
 手を引かれ、ソファまでつれてこられると、力の抜けた体はそのままずるずると柔らかなソファに沈んでいく。
「すぐ、用意するね。待ってて」
 上から覗きこまれ、思い切り目を反らした。視界の端に、なにが楽しいのか、嬉しそうに笑っている実咲の顔が映る。
 ガラステーブルに、マグカップが置かれた。おそらくカフェオレだ。中学生のころ、宗太は苦いコーヒーも、甘いコーヒーも飲めなかったから。カフェオレも好きだけど、今ではブラックでも飲めるようになった。そのことを、実咲は知らない。そういえば、さっき温かいものを用意すると言っていた。マメな男だ。
 少し口をつけ、気持ちを落ち着かせる。もしかして、昨日あったことは、本当に、全然気にすることはないことなんだろうか。宗太が、友達がいないから知らなかっただけで、男同士、性器を擦り合わせて抜くことはある種にコミュニケーションなのだろうか。
(そんなわけないだろ)
 そんなわけない、と思うのだけれど、友達がいないせいで経験値が少なく、絶対に違うとも言えない。
 もやもやしていると、テレビのリモコンが目に付いて思わず手に取った。
 普段、テレビを見る習慣はないのだが、とりあえず電源をつけてみる。雑音でもなんでもいいから、耳になにか入れないとおかしくなりそうだった。
 ちょうど、朝のニュースが終わろうとしているところで、なんにんかの芸能人が並んで話をしていた。数年のブランクがあるせいか、メインキャスターだと思われる人の顔がなんとなく見たことある程度で、ほかは全く分からない。
 ニュースが終わっても、画面に映るのは宗太の知らない芸能人ばかりだった。
 そもそも宗太が知っている芸能人といえば「あっきー」くらいだ。だが、そうタイミングよくあっきーは現れてくれない。
 コマーシャルのたびに知らない芸能人が映るが、誰を見ても「あっきー」ほどの輝きはないように感じられる。さすが、一人の男子中学生を惑わしただけあって、あっきーのアイドル性はなかなかのものだったらしい。
 テレビを見るのが久しぶり過ぎて、物珍しさもあり、思いのほかじっくりとテレビを見てしまっていた。テレビの中のひとたちと、はたして自分は同じ時代を生きているのだろうかという気になってくる。
 と、そこで、宗太は信じられないものを目にした。思わず飲んでいたカフェオレを噴き出しそうになる。
 それはチョコレートのコマーシャルだった。
 ジャズのリズムとともに、溶けたチョコレートがゆっくりと下に落ちていき、宙に浮かした誰かの手の上で成形される。小さなチョコを指でつまみ、ようやく全身を現した男がそれを口に入れてこちらを睨んだ。
 その瞳に宗太は固まって動けなくなった。
 見間違いかとも思った。しかし、あんなに顔の整った人間が、この世に二人もいるだろうか。すっと胃のあたりが痛くなる。かたかたと指が震える。今、自分が見たのは……。
「実咲っ」
 気付けば悲鳴にも似た声が出ていた。
「み、実咲! 実咲!」
「ど、どうしたの?」
 大人しくしていた宗太が急に大声を出したせいか、慌てた様子で実咲がかけよってくる。振り返って顔を確認する。間違いがなかった。
「ててて、て、テレビ」
「テレビ?」
「テレビに今、実咲が、実咲が!」
「え? ああ、チョコレートのやつ?」
 なんでもないことのように実咲が言うものだから、宗太はぽかんと口を開けた。
「確か、昨日か一昨日かくらいから流れてるんじゃないかな」
「……実咲」
「そういえば、チョコあるよ。たくさんもらったんだ。宗ちゃん、チョコは好き?」
 実咲の口調は相変わらず子どものようで、やっぱり今見たのは幻だったのかなという気がしてくる。端正な顔と、口調が釣り合わない。
「……なんで、テレビに出てるんだ」
「仕事だからだよ」
 わけがわからず、戸惑いを隠せない宗太に対し、憎らしいくらいのんびりとした様子で、にっこりと実咲が笑った。
「……実咲、仕事、なにしてるんだ」
 そういえば、昨日、実咲の職業について訊くのを忘れていた。いや、あえて訊かなかったのかもしれない。自分のアパートとは比較にならないマンション住まいの男の仕事を聞いて、自分との差を実感するのは怖い。
 けど、今は昨日とは違う意味で、答えを聞くのが恐ろしい。ついさっき見たコマーシャルがすでに答えになっていた。けれど、易々とそれを信じることができない。
 否定してもらいたかったのかどうかももう分からなくなっていた。
 実咲は少し驚いたように目を丸くしていたが、それから首を傾げ「……モデル、かな?」と呟いた。
「実咲って、芸能人なのか?」
 うん、と、子どもみたいに実咲が頷く。中学生の実咲と変わらない仕草で。
 あまりに無邪気で、昨日、あんなにいやらしいことを言ったりやったりした人と同一人物だとは思えない。
「ミキって名前で活動してる。別になんでもよかったんだけど、事務所が勝手にきめちゃったんだよね。ときどきCM出たりするんだけど、聞いたことない?」
「うち、テレビなくて」
「えー」
 なあんだ、とつまらなそうに口を尖らせる。
「僕、宗ちゃんが言ったから芸能人になったのに」
 思わぬことを言われて目を見開く。
 傷ついた、みたいな言い方だった。
 実咲の言葉に、あの日のことが鮮やかに蘇り、胸がきゅっと締めつけられた。昨日受けた恥ずかしい行為でさえ散り散りになってしまう。何気なく口にした「芸能人になればいい」というあの一言が今でも残っているなんて思わない。
 しかし、今は昔のことを思い出している場合ではない。あんな子どもの一言で、実咲が将来を決めてしまったことがにわかに信じられなかった。けれど、実咲は憂いを含んだ瞳でじっと見つめてくる。
「ご、ごめん」
 視線に押され思わず謝った。すると、先ほどまでのしゅんとした顔はなんだったのか、すぐに笑顔に戻る。あまりの表情の切り替えに、自分は騙されているんじゃないかという気になった。
「いいんだ。目的も達成できたしね」
「目的?」
 にこにこと笑っていた実咲の顔が一瞬、ぴくりと引きつったように見えた。
「あっきーに会った」
「えっ」
 一大事じゃないか。
 そんな大事なことを、どうして今ここでそんなにさらっと言えるのか宗太には理解できない。
 まるで自分のほうが憧れの人に会ったみたいな感覚になって、宗太の声が自然に弾んだ。
「どうだった? か、かっこよかった?」
 昨日のことなどすっかり忘れ、日野明輝の感想を尋ねる宗太に、実咲はきゅっと口をつぐんだ。てっきり一緒になってはしゃぎだすかと思っていたのに、そんな気配はない。
 不思議に思っている宗太に、実咲はごく真面目な顔で、「駄目だよ」と呟いた。
「え?」
「あっきーは駄目。会えないよ」
 そっけない言葉だった。
「あ、そう……」
 あっという間にしゅるしゅると気持ちがしぼんでいく。
 胃が痛いのを通り越して、冷たくなる。実咲の瞳は相変わらず柔らかな曲線を描き、穏やかな雰囲気を保っている。それなのに、実咲は冷たい現実をつきつけられた気になった。
 実咲にとって、なにより大切であるはずのあっきーこと、日野明輝。別に会いたいなんて思わない。ただ、宗太にとっても日野明輝は綺麗な思い出へとつながるツールだった。
 日野明輝を見ると、実咲のことを思い出した。思い出したら、ちょっとだけ気分が浮上した。
 実咲とは違った意味で、日野明輝が特別な存在だった。会いたいわけじゃない。そんなこと、思ったこともない。けれど、ちょっとくらい感想を教えてくれたってよさそうなものだ。あっきーに会って、どうだったか、どう思ったのか、それを実咲の口から聞きたかっただけだ。
 昔は、いっぱい喋った。というか、実咲の方がかなり一方的にあっきーについての情報を与えてきた。そのせいで、宗太は日野明輝の知識が無駄にあるのだ。
 よかったじゃないか、おめでとう、心からそう思っていたし、そう言いたかっただけなのに。
 日野明輝と会ったという実咲が、自分に対して牽制するような言葉を発したことに、自分でも驚くほどのダメージを受けている。まるで、宗太が実咲を利用して日野明輝に会いたがっているみたいに聞こえた。もしかしたら、実咲の周りにはそういう人間がたくさんいたのかもしれない。けど、宗太までそんなふうに思われてたなんて心外だった。
「分かってる。会いたいなんて、思ってない。思ってないよ。よかったじゃないか、会えて。あんなに、好きだったんだから」
 ぼそぼそと、途切れがちに、なんとか言葉を紡ぐ宗太に、そうだね、と実咲が言った。
「まあ、会えて、よかったよね。うん、それはよかった。嬉しかった。宗ちゃんが、芸能人になれって言ってくれなかったら絶対に叶わなかったと思うし……。うん、宗ちゃんには、すごく感謝してる」
 伏し目がちに、なにかを考えるように、うん、うん、と何度も頷いて、最後ににこっと笑った。笑った顔はやはりあどけない。けど、先程の発言で、その笑顔をもう昔と同じだとは思えなくなった。
 当たり前のことだけど、二人の間には同じように時間が流れていたし、同じくらい、二人とも変わっている。
「でも、宗ちゃん、気付いてくれてなかったのかあ。もしかしたら、テレビ見てくれてるかもしれないと思ってたのになあ」
「……ごめん」
 そう言われると弱い宗太が、条件反射で謝ると実咲はニコッと爽やかに笑い「いいんだ」と首を振った。すぐに洗剤のCMに出れるんじゃないかと思えるような胡散臭い爽やかさだ。
「宗ちゃんが言うから、前髪切ったり服装に気をつけたり眼鏡を外したり、オーディジョン受けたりしたんだけどね。雑誌やテレビに出たら、いつか宗ちゃんが気付いて、連絡をくれるかもしれないなんて子どもながらに思ったりして、頑張ったんだけどね。毎日毎日連絡を待ってたんだけど、そうか、気付いてくれてなかったのか。それじゃあ、なにも音沙汰なくても仕方ないよね。あーあ。そうかー」
「なんだよ! ごめんって言ってるだろ!」
 予想外にネチネチとした攻撃に戸惑い、思わず声が大きくなる。
 ネチネチとした言い方のわりに、顔は爽やかさの塊みたいな笑顔で、まったく気にしてませんよ、という雰囲気を醸し出しているものだから奇妙だ。嫌な予感がする。
 実咲の目が、怪しく光った気がした。
「その代わりさあ」
「……その代わり?」
 いったいなんだっていうんだ。
 胡散臭げに、冷たい視線を送る宗太に、実咲が、ぱっと両手を広げる。え、と思う間もなく、先ほどの爽やかさもかすむ熱弁をされた。
「だって、僕の人生変えたんだよ! もしも、宗ちゃんのあの一言がなかったら、僕は普通のサラリーマンとかになっていたかもしれないんだよ。テレビなんか出ずに、ただあっきーを外の世界から応援しているだけの、好青年だったかもしれないんだ。僕の人生を変えたのは間違いなく宗ちゃんなんだよ。それなのに、宗ちゃんは僕のこと見つけてくれてなかったんだよ。悲しいでしょ。そんな僕に、少しくらいいい思いさせてくれたってよくない?」
 必死だ。
 なにかをフォローしようとしているのだろうが、宗太は、まず実咲がなにをしてほしいのかさえ聞いていない。言うことを聞くにも断るにも、まずは実咲望みを聞いてみないことには始まらない。
「分かったから。言ってみろよ」
 うんざりしてそう言い放った宗太に、実咲の口角がゆるゆるとあがっていった。
 しまった、と思ったがもう遅い。
 確信犯的な微笑みに逃げ出したくなる。
「ここにいてほしい」
 実咲の答えは、実にシンプルなものだった。
 もっと難解なものを言い出してくるかもと思ったが、日本語としては分かりやすい。
 ただし、意味はよく分からない。
「は?」
 もうここにいるじゃないか。そう言うと、「そうじゃなくて」と、出来の悪い子どもを辛抱強く諭すように、実咲が宗太の肩に手を置いてじっと見つめてきた。
 相手は実咲なのに、綺麗な瞳に熱っぽく見つめられると、どきどきして、なぜかいたたまれなくなってくる。
「ここに、住んでくれる? 一緒に」
 ぽかん、と口をあけた。
 ここに? 住む? 一緒に?
 少しでも分かりやすくしようと、できるだけ言葉を短く区切って考えてみるが、やっぱりよく分からない。
 状況を把握できず、ただ言葉を理解しようと固まる宗太に、なにを思ったのか、ぐいと実咲が身を乗り出してきた。
 まずい、と思う。
 いくらときが過ぎたとはいえ、一時はべったりと四六時中いっしょにいた実咲だ。
 宗太が押しに弱いことくらい、きっと分かりすぎるぐらい分かっている。
 思った通り、宗太がここぞとばかりに言葉をたたみかけてきた。きらきらとした瞳に押されて、細くてひょろりとした宗太の体は引き気味になる。
「分かるよ、急に言われて戸惑ってるんだよね。でも考えてみて? ここで暮らすのって、宗ちゃんにとってメリットだらけなんだよ」
「いや、あの」
「だって宗ちゃん、会社潰れちゃったんでしょ。仕事まだ決まってないんだよね。お母さんにお金持っていかれて、貯金もないし、家賃が払えないかもしれないって昨日言ってたじゃない。もちろん、貸すこともできるよ。宗ちゃんにだったらいくらだって貸すよ。でも、宗ちゃんはそんなの嫌だろ。だったら、うちにしときなよ。家賃いらないよ。とりあえずここから仕事を探して、お金を貯めてったらいいんじゃないかな」
「でも、あの、待って、ちょ」
「宗ちゃん、結婚したいんだよね? 昨日言ってたもんね? 家族が欲しいって。え? なに、なんで首振ってんの。まさか覚えてないの? え? 人のこと追いつめといて今さらそんなこと言う? 分かった、じゃあそれは置いとこうか。とにかく、今後のことも考えると、お金は必要だよねって、僕は言いたかったんだよ」
 蛇に睨まれた蛙、とはよく言ったものだ。実咲の瞳に見据えられ、動くことはできない。家族が欲しいだなんて言っただろうか。なんか、その部分だけ、やけに実咲の目が怖かった気がする。
 情けないことに、実咲の勢いに押され涙目になっている宗太だったが、実咲はちっとも引こうとしない。
 ふ、と息をついて、柔らかく目を細めた。
(うわ)
 その顔は反則だ、と思う。犬が甘えるみたいに、額を宗太の胸に預けてくる。
「ここに、いてくれるだけでいいんだ」
 駄目?
 部屋に響く、甘えたな実咲の声。
 これに弱い。宗太は、実咲のこの声に、すごく弱い。
 顔が近付いてくる。なにをされるか分かっていながら、逃げることができなかった。がちがちに固まる宗太の唇に、そっと実咲のそれが重ねられる。
 すりすりと、指の腹で頬を撫でられた。昨日の記憶が蘇り、顔に熱が集まってくる。自分の顔が赤いのなんて、鏡を見なくったって分かる。
「宗ちゃん、かわいい」
 実咲の声が、残酷に宗太の耳に届いた。